福島原発事故とこれからの生活を考えるblog

by原発事故被害者支援司法書士団 team of shihosyoshi to support compensation for nuclear accident victims         

福島第一原発の事故で失ったものは何でしょうか?
様々なものが失われました。
失われたものを取り戻すために、何をすべきなのでしょうか。

シンポジウム・パネル討論(2)パネラー発言・広野町の現実

広野町というのはご存じだと思いますが、第一原発の南、およそ20キロから30キロの圏内に属する町です。かつて緊急時避難準備区域に指定されておりましたけれど、平成23年9月30日に、その区域は解除されました。およそ2年前です。2年前に解除されたというのは2つの意味を持っています。一つは、帰還の制限が解除されましたので、自由に帰れるということです。もう一つは、帰還の制限が解除されたのに伴いまして、東電の精神的賠償、賠償金の支払いというものが、ある一定の時期、「相当期間」という言い方をしていますけれど、を過ぎた後はストップするという意味を持っています。

 それで、その賠償金の支払いですが、それは平成24年の8月末で賠償金の支払いがストップになりました。解除されてからおよそ1年後。今から見ると1年前ということになります。広野町は、仮設に入っている方も多くいますが、法的に見れば、帰還の制限はもう解除されて、損害賠償金の支払いもストップしたという町です。

 では今の現実、広野町にどのぐらいの方が帰っているかいうことですが、平成25年5月末日現在の広野町の世帯数は1、908世帯、総人口にして5、191人。これが住民票上の人口と世帯数です。平成25年6月26日現在の町内居住者数が1、048人、町内の居住世帯数が551世帯。つまり、戻ってもいい地域ですけれど、総人口およそ5、000人のうち、戻ってきている人は1、000人です。5分の1です。世帯数にするとおよそ30パーセントになり、あまり帰還が促進していないということになります。私はこの数字を見たときに、「ああ、随分帰ってないな」というような印象を受けました。続く(し)

シンポジウム・パネル討論(1)最初に・実際の現実を凝視する

群馬の司法書士は、2011年の3月後半から4月の初めに、福島県南相馬の方々を中心とした被災者に対する支援を始めました。それから2年半、ずっと活動を続けてきました。つくづく思うのは、現実という言葉がありますけれど、政府とか、あるいは行政とか、そういった人たちが見せようとしている現実があります。その現実というのは、例えば事故は収束したということ。あるいは、除染というのは効果的であって、除染をすれば元の暮らしが取り戻せるというようなこと。あるいは、被災者の人たちは1日も早く故郷に戻って、そこで暮らしていきたいと思っているというようなこと。

 そういう見せようとしている現実がありますが、その現実と、私たちが実際に原発事故の被害者の方に会って、それから原発事故の被害地に行って、いろんなものを見て、そして話を聞いて、いろんなことを考えていくと、そういう過程で見えてきた現実。見せたい現実と、我々に実際に見える現実とのギャップというのは、ものすごく大きいです。

 そうすると、この2年半を通じてつくづく感じますが、とっても疲れます。何ていうか、本当にうそで固めた上に今の政策、例えば原発のいろんな施策があるわけです。そういったものが構築されているというのがすごくよく見えます。除染費用5兆円という金額を使うわけですが、その5兆円がどこにどうやって消えていくのかということも何となくわかります。大手のゼネコンが受けた5兆円が、やがて末端の、それこそ原発事故の被害者の方たちが日当をもらってやっている作業に至るまでに、どうやって消えていってしまうのかが見えます。

 そうすると、とても日本政府のことを信じられないし、東電のことも信じられません。とっても私たちも疲れます。だから、被害者の方たちはもっとだと思います。まさに彼らは自分たちの置かれた現実をよくわかっていて、しかしその現実と全く違う現実がフレームアップされていて、むしろ日本国民の1億2,000万分の17万とかそのぐらいの数字、直接の被害者は現実を知っている。残りの人たち、その1億2,000万分の17万を除いた人たちは、ひょっとしたら、要するに見せたい現実しか見ていないのではないかと思います。それが我々の現実です。

 今日は、しかしそういう見せたい現実ではなく、実際の現実をもう一度よく凝視して、そこから実際どうやって踏み出していくのかを考えようということで、このシンポジウムを企画させていただきました。続く(し)

中越地震から9年 -旧山古志村の帰還・過疎化と原発被害者の帰還-

 中越地震から9年、今、旧山古志村では、過疎化が進行している。
 2004年10月に起きた中越地震では、旧山古志村の村民は、一時全村避難を余儀なくされた。その後、村民は仮設住宅等で避難生活を強いられたが、3年後の2007年4月に避難指示が解除され、約70%の村民が帰還した。地震前の2004年4月の旧山古志村の総人口は2184人、約1500人が帰村したことになる。
 しかし、その後、若い世代を中心に人口の流出が続き、今年10月1日現在の、旧山古志村の人口は、1188人と、約54%に減った。総人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)も地震前の37%から、45%と増加しているという。(数字は産経新聞による)

 原発事故の被災地では、今、帰還に向けての行程が当然のごとく進められている。政府の政策も、帰還を前提としていることは疑いない。帰還政策は、旧住民のほとんどが帰還をするということがの前提となっている。しかし、この前提は正しいのだろうか。当該市町村の行った住民意向調査の結果でも、帰還しない意向を示した被災者の方の割合は高い。 
 現実に、帰還に関する法的な制限が無くなり、除染も住居地域では完了している町に広野町がある。広野町は、平成23年9月30日に緊急時避難準備区域が解除されたが、1年10ケ月(H25.8現在)が経過した現時点でも実際に居住している人は、総人口の約5分の1、町内居住世帯数は総世帯数の29%にすぎない。

 中越地震の被災地、旧山古志村では、3年後約7割の村民が帰村した。しかし、その後、過疎化の進行で人口は減少している。帰村しなかった層が子育て世代以下の年齢層に多く、それがその後の過疎化に拍車をかけているという。
 おそらく、原発事故の被災地でも、何も手当をしなければ、同様なことが起きる可能性が高い。現実的に、これから実際に何がどう進行していくのかしっかりと見極める必要がある。帰還の政策や復興の構想は、こうした現実を踏まえて発想すべきだろう。(い)

野田正彰氏基調講演・がんばろうコール

 

講演者野田正彰氏の,過去において数々の大事故、大災害を取材し、評論し、執筆し、社会に問題提起した先生の鋭い視線で真相に迫った講演を再現します。2時間に及ぶ講演でしたので特筆すべき部分を編集させていただきました。(しまだ)

 象徴的に私はくっきりと覚えておりますけれども、2011年8月に訪れた郡山の巨大避難所であるパレットの壁に大きな模造紙で、「来年の春はふるさとに帰ろう」という文字が書かれて、それが3分の1ぐらい落ちて揺れていました。で、その風景が私にとって、これは普通のことでは済まないなということを思いました。

 どういうことかといいますと、ここまで嘘が進行する。現実を見ないということ。あるいは、現実を見ても、見ないふりをしないと許さないということが私たちの目の前にあるんだということを思って呆然としました。私にとっても、多くの人にとっても、来年の春、2012年の春にふるさとに戻るということはあり得ないはずだと私は思ったんです。しかし、それを言うことは許されなかったはずです、あの時点では。言う人が何人かいると、すごく怒っている発言を聞きました。「無責任だ」とか、そういったことがあります。

 考えてみますと、今回の震災は、阪神とかこれまでの震災と違って、出発から巨大な欺瞞が行われてきたと思います。最初の国家的な、ナショナルなレベルでの欺瞞は、「がんばろうコール」だったわけです。あれほど大きな被災で、人が、2万の人たちが亡くなっているのに、「がんばろう」というのは、現実に何がどれぐらい被害があったのかということを調べる前に、「がんばろう、がんばろう」というのがずっと行われていきました。で、これは異常だなと思ったんですね。皆さん、どうだったでしょうか。

頑張ろうコールの後、さっき言ったような「来年の春は福島に帰ろう」ですね。全部、今回の災害は現実を歪曲して否認して見ていくということが集合的な意識として行われて出発したんじゃないかというふうに思えます。


2年半が経過しました。で、時間の問題を次に考えてみたいと思いますけれども、時間というのは、時間に敏感になり始めたのは、いろいろ時代があると思います。文明の進行とともにですね。おそらく中世の時間と近世の時間、そして現代の時間というのは、時間感覚としては違っていると思います。私たちは時計の時間という形で社会の約束をつくっているんだけれども、これもたかだか150年ぐらいの西洋化の中での時間だと言えると思います。

 今、2年半というのは、近代の時計の時間で言っているわけですけれども、しかし人間の時間は違いますよね。人間の時間というのは、やっぱり速さがゆっくり動いたり速く動いたりしております。私たちは子どものとき成長していく過程で、自分はどんなふうに成長して大人になっていくだろうかと、そういった未来が膨らんだときは、非常に長い時間を生きております。1年先は自分はどんなふうに変わっているかわからないし、いろいろなことが開かれていきます、関心が。あのころの時間は長かったはずです。次第に時間は短くなって、大人になると時間は短くなって、私のような年寄りになっていくと、1年がもうあっという間に過ぎるようになっていきますよね。人の時間は、人生という中でも時間も違いますし、それから1日の時間の意味も違いますよね。生きている時間というのは、それぞれ文化によって、その生活環境によって違うと思います。

 被災者の方たちが生きていた時間。例えばあの福島の被災地の山の中で開拓農業をやっている人にとっての時間というのは、この前橋で生きている人の時間とは全く違ったはずです。そういった人たちに、いきなり災害の時間が下りてきました。そして、彼らにとっては何が何やらわからない。で、多くのところにバラバラになって被災していったわけです。被災していって、これを非常に乱暴な言い方ですけれども、一言で言って、足踏みの時間だったと思います、この2年半は。待っている時間ですね。何かしてくれるだろう。それから、この社会で、世の中で何かを発言しても、結果としてはあまりいいことは起こらないから、静かにしていると何かあるだろうと。発言するよりも黙っているほうがましだということで、足踏みしていた時間であるとも言えるかもしれません。

 しかし、足踏みというのは人間にとって耐えがたいことなんですよね。人はどんなに苦しいことでも、期間が限定されて、あの日まで耐えられれば状況は変わるんだということがわかっていれば、それに耐える力がわきます。耐えるどころか今度は、これくらいあったら新しい展開が開けると思うと、そこに努力を集中していくことができます。だから、その時間は自分のものになります。しかし、足踏みして待っている時間というのは自分のものではないんですね。半分以上は他者のものです。誰かが取っている時間であります。

精神鑑定なんかをやっていて思うのは、刑事被告の人たちの鑑定なんかで、無期懲役囚の人の時間というのは非常にしんどいですよね。果てしなくエンドレスの時間ということです。限定された期間の人のほうが精神状態はいいんです。そういうよくないたとえをちょっと頭に浮かんだので言いましたけど、いずれにしても2年半待っていたということは大変なことだったろうと思います。

 私は一緒に群馬の司法書士の方々と仮設住宅を歩きながら、何とか被災者たちが話し合ってほしいと祈っておりました。私は世界中の内乱とか難民の調査は、もういろいろしてきました。そういったところ、例えば今スッとそれを思い出して言うのは、例えば中央アジアで、ソ連の崩壊の中でトルコ・メスヘティアという人がウズベキスタンで民俗粛清、殺害に遭いまして、難民となって流浪しながらアゼルバイジャンのほうに逃げてきた人たちの村で過ごしたことがあります。

 そういった人たちを見ますと、結局、困難な状況の中にそれなりにまとまりをもって生きていこうとしている限りは、彼らは非常に貧困で大変だけれども、精神的にはいい状態にあります。しかし、全部が受け身であるときは、本当にしんどいですね。家族もバラバラになっていきます。だから2年半の足踏みの状況の中で被災者がどんなにつらい思いをしてきたかということを私は想像しますけれども、それでも健康な集団の持っている力というのは、全てを失ったときでも、お互いに話し合っていることです。話し合って、こんなふうに生きていこうじゃないかとか、そういうことを話し合っていく中で力を持つんですね。彼らは土地も失い、家族も殺され、近隣関係も全部奪われて流浪の旅に出ている人たち。それでも彼らは1日も、毎日も一緒に話し合って、世間話をしたり、この世界はどうなっていくかと話しながら生きていくことが、生きる力へつながっています。

 そして今、私たちは、いやでも応でも、放射線の時間というのに直面しているわけです。そんなものは今さら言う必要はないと言われるかもしれませんけれども、やっぱり私たちが直面しているのは放射線の時間であります。一時、いろいろ騒ぎましたけれども、すっかり忘れているんですね。セシウムとかストロンチウムは半減期が私たちの時間を超えています。セシウムは30年、ストロンチウムは28年です。それからウランは7億年ですね。つくられたプルトニウムは30万年、半減期は2万4,000年ですか。こんなのは、私たち人間の近代の時間ではないです。

 しかし、日本政府は時効ということを言っております。民法における時効は3年ですよね。時効が定まっている。時間の問題というのは、こうやってさまざまな形で私たちの愚かさを笑っているかのようです。確実にこういった長い時間で被害が出てき、そして、それに耐え続けることによってまた、二次的な被害が出てくる。しかし、そういったことを無視して、時効とかいうことで、3年の話でのすり替えが今、進行しようとしているのではないでしょうか。よく注意しておかないといけないと思います。

ここで、福島の災害における一つの変遷、被災者が被害者に変わっていったということについて、次のお話をしたいと思います。大震災が起きました。だから、これまでの自然災害の延長で、被災者と考えました。だから群馬県の司法書士たちも、自分たちを援助者と位置付けたと思います。被災者がいて、援助者がいて、何ができるだろうかと発想しました。阪神淡路大震災のとき、援助者がいろいろな形で活動し、援助していると言いながら、実は既存の体制の中に被災者を組み込んでいこうとする動きがありました。必ずそういう動きの中で展開されるから、私は「被災者はそれに注意しながら自立していかないといけない」ということをずっと言い続けました。

 しかし今回の災害の中で、被災者はすぐ被害者に変わりました。福島の方たちは他の2県、岩手、宮城は被災者だけれども、自分たちは被害者であるとの主張がありました。これは正しい主張であったと思いますけれども、ただ、そのことが社会関係をどういうふうに変えていくかということについて、私たちはあまり無自覚であったのではないかという気もします。で、かくして被害者になったときには、加害者がいますね。加害者は誰か。差し当たっては東電です。そこで東電といったときに、当然、国も加害者ですけれども、国の問題はちょっと曖昧になったところがあると思います。

 国に至っては、しばしば自分たちは被災者であるというような顔をしています。今でもそうですね。後でまた時間があったら言いたいと思いますけれども、安倍首相は、彼が2006年の安倍内閣のときに、津波対策は必要ないということを決めた内閣の当事者ですよね。その人が現在、オリンピック招致の中で、この災害をちゃんと抑えていますなんていうことを平然と言っております。彼は自分の父親のことは一切言わないですね。岸信介の孫であるということを主張して言っている人です。その祖父たる岸は、太平洋戦争の宣戦布告者の一人です。それがアメリカと安保条約を結ぶということで、国民は非常に怒ったわけです。そのじいさんのコピーかのように、この東京電力の事故の元凶の一人です。それが今、担当の総理大臣に国民は選んでいます。そして彼らの顔は、あたかも自分たちが被害者、あるいは被災者であるような顔をしている。こういう形で複雑になっていると言えると思います。

私たちは原発をやっぱり責任という言葉で考えなければならないと思います。私たち一人ひとりには責任があるはずです。それは、東電とか国は、この事故を起こし、そして原発災害補償法なんかをつくって、原子力は絶対安全であって、事故が起こった場合は過失があるなしに関わらず全ての補償をしますという法律をつくっているわけです。その法律の下に、原子力発電は一切事故が起こらないという形で進めてきたわけです。そういったことをした人たちに、まず、第一の責任があるはずです。

 それから、そういったことに群がりながら、原子力発電を進めてきた原子力ムラの学者とか、マスコミ陣とか、全部責任があるはずです。

 それから次に、地域の推進者に責任があります。地域の責任者は、自分たちは原子力発電について詳しいことは知らなかったという言い訳をしております。しかし、それも明らかにうそです。うそですよね。スリーマイルが起こったときも、地元でそのことを指摘した人はいます。チェルノブイリが起こったときもいます。それで議員に立候補した人もいました、各地域で。しかし、地域の住民はそういった人たちのことを無視してきたのではないでしょうか。

 無視してきた地域の人たちにも責任があります。住民には責任がない、自分たちは信じていただけだということになっても、それは通らないのではないでしょうか。この発言の中で、地域の人たちは聞きます。補助金をもらった町もあるけど、例えば浪江のように、原発立地と違うから、補助金ももらってないとかですね。しかし、もらってなくても、二次、三次で働きにいったから、潤っていたじゃないかとかいう、非常にレベルの低い議論がありますけれども、しかしこういった原子力発電の中で地域社会を起こそうとしたことに批判した人たちがいたのに、それに対してどういう態度を取ったかということにおいて、地域の住民の責任はあるのではないでしょうか。

 それから地域外の人たち、私たちにも責任があります。私たちはこれほどの事故が起こりながら、原発ニヒリズムの中で生きてきたということが言えるのではないでしょうか。しょせん日本は資源の乏しい国だから、原子力のようなエネルギーに依拠しながら、産業発展していくしかないということで、支持し、あるいは無関心を装ってきた責任があるのでないでしょうか。

 一人ひとりがこういった程度の差は歴然としてありますけれども、その責任を自覚することから、この災害に向き合う一つの立場というのが築かれるはずです。超えられる道がそこからつくられるはずです。しかし、どこからも本当の責任を問うということが議論されていないように私は思えます。

災害の中で常に求められるのは強い国家です。そして強い指導者です。結局、多くの被害を被ったのだから、国家が強くないといけない、経済が強くないといけないといって、引き締めが行われてきたわけです。

 常に震災の中で出てくるのは、国家の危機です。住民の危機じゃないですよ。国家の危機であると。だから国家の危機に対抗するために一丸となって頑張らないといけないという主張になって、そしてそれは、治安維持法的な、批判する勢力をつぶして、そしてそれを対外的な緊張をあおりながら国家主義を強化していくという流れは、常に私たちがやってきたことです。だから、この災害の中でも、多かれ少なかれそれが進行していくということについて、非常に敏感でないといけないはずです。

 だけど、振り返ってください。わずかまだ2年半しかたってないけれど、何が行われたでしょうか。私は、十分ではなかったと思いますけれども、当時の菅首相は精いっぱいいろいろやっていました。あれを引きずり下ろした勢力というのは、おそらく誰か、あそこまで彼をたたかないといけないというのは、なぜかというのはよくわかりません。多分にアメリカの勢力が関わっているのかもしれませんけれども、落としましたよね。その後ずっと、結局、例えば災害地でも自粛ということが言われたのですけれど、自粛していたら災害地にお金が落ちないから、もっとお金を使いましょうとか、被災地に行きましょうとかいう話ですね。そして、いまだに、がんばろうコールは、あちこちに張ってあります。そういう中で、私たちは結局、経済が強くないと被災者へも援助が行われませんということがささやかれる状況に今、あります。その焦点がオリンピック招致であります。オリンピック招致をして、経済が活性化すればいいということですね。

 もう、あのオリンピックなんかで、私たちの社会に、いかに法治意識がないかということを私は思います。皆さん、どうでしょうか。オリンピック招致は国会で決まったのですか。決まってないでしょう。しかし総理大臣から全部が行って、変な口約束をしております。オリンピック委員会なるものは、150人のあの委員は、一体誰が選んだのでしょうか。国家が選んでいませんよ。いい加減な組織です。

 今、世界は、地球は国家によって法律が決められて、それで国際組織というのは国連にということで一応法律があります。国連の委員とか何とかがお金を取ったりしたら、法律で裁かれますよ。国家公務員だってそれは裁かれますよ。しかし、無尽蔵に賄賂が行われるのがオリンピックの委員です。現実にお金がどれぐらい使われているかわかりませんけれども、さまざまな、例えば家族をファーストクラスで呼ぶとか、それから、癒着している日本の私立大学はオリンピックの委員を名誉博士だとか名誉教授にするとか、そういうところからも、あらゆることでの賄賂が行われています。

 この前、国際放送を見ていますと、マドリッドのほうが招致のための活動に30兆円使った。だけど、もうこれ以上使えないと言っているのが放送されておりました。日本は幾ら使ったのでしょうか。そのお金はどこから出たのでしょうか。こういったことが横行して、そして、これぐらいのお金を使いながらも、社会の矛盾をすり替えて、金もうけに使われていくということ、それが東日本大震災を超える道だという論評が展開されるような社会に私たちは生きているわけです。

私は、チェルノブイリでの診察を3回にわたって行っています。キエフのチェルノブイリの記念館入口を入ると、消えた村のプレートが何十も並んでいました。

 そのチェルノブイリ原発事故から26年経っていますが、その姿は私たちに多くのことを語りかけています。このチェルノブイリの人たちの多くは、直接被害を受けた人ではなくて、事故後に職がなくて、村に帰って除染とか何とかで働きに行った人たちが病に倒れています。その後の被災者ですね。そういった人たちが入っているアパートなんかで聞きますと、ほとんどの人が、自分の病名は5つ以上、10ぐらい持っています。10ぐらい付くと、医者はもう、「あなたはチェルノブイリで被災したことを忘れないでください」と言うだけで、それ以上、病名は言ってくれないそうです。

 例えば、群馬の新聞にも書きましたけれども、白血病とかがんで亡くなっている人たちが30パーセントぐらいですけれども、脳血管障害と循環器障害の人が非常に多いです。4割近くはそういう形で亡くなっております。そして、1割は自殺です。

 放射線医学で、広島・長崎モデルがあって、とにかく遺伝子がどのように変化してがん細胞が起こるかということだけの研究に特化されていますから、放射線の医学は。で、小さな血管がどのように破壊されるかとか、そういったことの研究というのはほとんどされません。医学レベルではそういう研究をすると、放射線以外の対象研究との対比が行われていないから、科学的研究でないとかいって、学問でないという形で否認されることがずっと続いております。

 そういう中で、チェルノブイリの現実は、多くの人が循環器の障害で倒れていっていること。それから、チェルノブイリは、最初はソ連の時代で補償は幾つか行われ、そしてチェルノブイリ法がつくられていきましたし、ウクライナでも96年までずっと補償が行われたけど、それがもういい加減にしろ式で忘れられていきます。被災した人たちとか、その子どもたちは、私が行っても本当に、なんか命の影が薄い感じのする人に会います。原爆のときも、ぶらぶら病というようなことを言われましたけれども、朝元気に起きても、体がだるくて動けなくなるという状態の人がたくさんいますね。そういった人たちが、生きていく意欲を失っていく。それが26年、28年後のチェルノブイリの現実でした。

  現実を否認しても否認しても、問題は追いかけてくるわけです。群馬の司法書士会が始めた被災への取組は、2年で済まなくて、大変な問題に会として取り組んだと思いますけれど、これから長いいろいろな思いがあっていくと思います。しかし、私たちは、最後のまとめというか、言いたいことは、足踏みはいけません。私たちは少し足踏みをしてもいいかもしれない、外の人は。しかし被災者にとって、足踏みする時間というのは耐え難いことです。で、足踏みをさせないためにも、ちゃんとした法律をつくって、福島支援法というのをつくって、そして、例えば許す限りで、年間、例えば、私も望むらくは1ミリシーベルトですけれど、それ以上の地域の中に住んでいた人は、自分が移りたいと言ったら、その土地とか補償をして移す。それから国は、地域単位で一定程度の土地をつくっていく。もちろんそこに移らなくてもいいですけど。そういったことを法律的につくっていく運動をやっぱりしない限り、どうしようもない時期に来ていると私は思います。時間になりましたので終わります。どうもありがとうございました。




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「原発損害とこれからの生活を考えるBLOG」を訪問していただき感謝しております。本ブログは、2013年10月11日に立ち上げ、原発事故被害者支援司法書士団(以下、司法書士団という)が運営しています。司法書士団は全国の司法書士50人が結集し組織されており、具体的な活動として、原発事故損害賠償請求を中心とした避難生活に伴う様々な相談を受け、原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)への和解仲介申し立ての支援をしています。我々のこれらの活動は「プロボノ活動(自らの専門知識や技能を生かして参加する社会貢献活動)」と位置づけています。活動は震災年(2011年)4月から始めており、群馬県内の避難所や福島県の仮設住宅を訪問し活動をし続けています。日本国史上例のない原発事故。通常の相談とは全く違った側面を持っており、困難を極めた活動となっています。このたびのブログ立ち上げは、今までの活動で培ってきた「司法書士団」の情報を公開し、皆様に「原発事故の実相」を知っていただき「原発問題をより深く考える」切っ掛けにしていただければと願っております。また、避難者の方々の「これからの生活を考える」うえでのヒントになれば幸いです。常に新しい情報の提供を心がけ、毎日更新しています。是非、お気に入りに追加してください。皆様のお出でをお待ちしております。

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