福島原発事故とこれからの生活を考えるblog

by原発事故被害者支援司法書士団 team of shihosyoshi to support compensation for nuclear accident victims         

福島第一原発の事故で失ったものは何でしょうか?
様々なものが失われました。
失われたものを取り戻すために、何をすべきなのでしょうか。

2013年12月

一年ありがとうございました。

今年も残り少なくなりました。
皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
被災者の方にとっては、今年も大変厳しい年であったとご推察いたします。
三嶋神社

南相馬市の三嶋神社も、明後日には初詣の参拝で大いに賑わうでしょう。
皆様は、初詣にお出かけでしょうか。
望みが叶うかかなわぬかは神のみの知ることですが、来年は、よりよい年でありますよう願いをかけたいと思います。
花2
南相馬市の駅前には、鮮やかな赤い花が咲いています。
来るべきお正月を祝うように、赤い実が冬の日差しの中で輝いています。
花1
今年一年ありがとうございました。
来年も、このBLOGをよろしくお願いすます。
 

南相馬市の津波犠牲者の遺族と東電が和解(Part2その詳細)(3)

申立人Aの陳述書(要旨・その1)

私と私の家族の平成23年3月11日から同年4月1日までの事実経過と私の心情を以下のとおり陳述いたします。


(事実関係)

3月11日

東日本大震災。自宅は津波により流失。母Bと息子Cの無事は確認できたが、妻Dの行方がわからず、市内の避難所を探し回りました。その時点では妻が津波に呑まれたとは、私を含め誰も思っていませんでした。その日は母の実家に泊めてもらいましたが、その夜、大地震と津波で自宅一面が海とつながり湖になったような光景を見て、そして何よりも大事な妻の安否がはっきりしなかったのでとても不安な夜でした。

3月12日

福島第一原発1号機爆発。

その日は朝から昨夜行った避難所や新たに設けられた避難所に行き、安否確認名簿や避難者でごった返す中、妻は避難所の何処かにいるんだと信じて探し回りましたが、その日も手がかりはありませんでした。テレビでは津波により多数死者がいると報道され始め、私自身も「まさか妻も」と一瞬頭をよぎりましたが、まだ何処かに生きていると家族全員信じていました。

3月13日

私と息子はその日も妻の行方を探していました。すると妻が働いていた会社の上司が自宅いると聞き、妻の3月11日の足取りを聞くために、その上司の自宅に行きました。妻が行方不明であることを言うと、上司は、その日の15時20分頃、妻が職場から自宅に戻ったと言われ、その時、妻は津波に呑まれたかもしれないと思い、とても言い表せない感情になりました。その日原発3号機が爆発しましたが、私達家族は妻のことでいっぱいで、それどころではありませんでした。

3月14日

妻が自宅に戻ったとわかってからは、まだ海水が引けていない瓦礫の中を探し、乗っていた車らしいものを見つけては妻がいないか確認しました。その光景は地獄そのものでした。第一原発3号機水素爆発。その日は原町区の原町高等学校に設けられた遺体安置所に行ったが妻はいませんでした。最悪の状態を思いつつも妻の生存を家族は信じていました。

3月15日

瓦礫の中の捜索と安置所を行ったり来たりしていました。第一原発2号機で爆発。4号機原子炉建屋で出火。第一原発の半径20から30キロの住民に屋内退避指示が出て、それを原町高校の死体安置所の駐車場にいる時に、市の防災無線で聞きました。情報が錯綜していたのか、数分後には誤報だったと放送されたか思うと、また屋内退避とのこと。その時に居た原町高校は、完全に30キロ圏内でした。息を止めながら安置所がある体育館に走りました。

3月16日

南相馬市長が市民に対し、一時避難を要請。妻を早く見つけたい心境と、一人息子を見えない放射能から守らなければ、という間に心が揺れていました。妻がこの場にいたらやはり未来ある息子を危険な場所に置いておくはずがないと思いました。そしてその日のうちにお世話にな南相馬3っていた母の実家の家族と車2台で一旦は福島方面に向かいました。しかし、途中はぐれてその日は2家族ともまた母の実家に戻って来ました。後になって、妻が自衛隊により発見されたのはこの日だったことが判りました。何もかもが行き違いでした。原発事故のせいで。続く(い)

       ふと、天を仰ぐと、共に祈る我々に向かって
       ,
かすかな陽光が差していた。

                    (2013年12月14日撮影)

南相馬市の津波犠牲者の遺族と東電が和解(Part2その詳細)(2)

申立人A等の申立書(要旨)



申立ての理由

1 精神的な損害の賠償

次のような理由で特に苦痛が増えた。

申立人等は、原発事故により、居住地からの避難を強いられ、津波で行方不明となった申立人Aの妻、D(申立人Cの母、申立人Bの長男Aの妻)を置き去りにしてしまい、親族として当然行うべきDの捜索がままならないもどかしさにより、苦痛を伴う強い不安に襲われた。

申立人Aと同Cが、漸く遺体安置所でDの写真を確認した日(3月23日)の前日に、Dは火葬(3月22日)されていた。夫として、子として、母として、見送ることも最後の別れも叶わなかった。原発事故さえなければ、との思いが申立人等を苦しめた。 

申立人Dは、遺体を見ることもできず遺骨になって帰ってきた母親の死を受け入れていない様子であり、仏壇に手を合わせることも墓参りに行く事も避けている。将来の精神的外傷が心配である。

同居の申立人B(Dの義母)は、原発事故がなければこんなに遠くの避難所まで来ないで探していたのに、最後の姿が見られなかった。Dの顔をみて話しかけてやりたかったと毎日毎日思う。孫(申立人C)のことがかわいそうでならない。

上記の理由で、申立人等は、Dの捜索活動を十分にしてやれなかったこと及び十分な供養をしてやれなかったことに対して、申し訳なさと自責の念に現在も苛まれている。



2 申立人Aの生命・身体的損害(精神神経科関係の健康状態の悪化による精神的損害)、及び避難生活に伴う精神的損害等の損害の賠償。

申立人Aは、義兄経営の会社に勤務していたが、東日本大震災及びそれに続く原発事故により工場が操業停止となり離職を余儀なくされた。

その後、母の実家や避難所などを経て、23年7月頃現在の居住地である仮設住宅に入居した。

その頃から、将来の不安、妻に対する申し訳なさと自責の念に苛まれ、更に、過酷な居住環境のストレスも加わって、うつ病、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した。

申立人Aは、仮設住宅を巡回訪問している保健師等の勧めで、現在、医師の治療を受けているが、精神的に不安定な状態は改善されず、将来の生活・健康の不安感が強く、今尚仕事にもつけず立ち直れていない。

また、妻に対しての申し訳なさと自責の念、絶望感が未だに心の底に潜み、正直、死んでしまおうかと思うのは日常的である。遺体安置所で見た妻の写真が頭から離れない。



3 因果関係

(1)申立人等は、3月16日の南相馬市長の一時避難の要請により、母の実家・福島市の避難所等に避難した。

(2)上記避難により、津波で行方不明となった申立外Dの捜索活動や慰霊行為を妨げられた。

(3)愛すべき妻であり母であり子であるDが行方不明になった折、申立人等が肉親として当然行うべき捜索活動や慰霊行為を、原発事故により行えなかったことで申立人等が精神的な損害を受けたことは明白である。

(4)申立人Aが発症した、うつ病、PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、上記(3)の理由のほか、就労していた工場の操業停止による離職に起因する将来の生活不安や過酷な避難所・仮設住宅の環境が、その主たる原因であることは診断書のとおり疑いがない。また、現在もその症状は回復していない。南相馬2

(5)

以上の理由により、相手方はその損害を賠償する義務を負う。続く(い)


無機質に広がる津波被災地に、新しく立てられた電柱、舗装された道路、激しく煙を吐く煙突だけが復興への兆しを示しているように見えるが道のりは遙か彼方まで続いているだろう。
(2013年12月14日撮影)


 


 

南相馬市の津波犠牲者の遺族と東電が和解(Part2その詳細)(1)

 原発事故被害者支援司法書士団が相談を受け団員が受託し申立てた事案で、10月*日、津波犠牲者の遺族と東電の和解が成立した。


事案の概要

 
この事案は、津波被災者が、原発事故により、津波で行方不明になった家族を速やかに捜索できなかったこと、及び、慰霊行為(後に死亡が確認された)を妨げられたことに対する精神的な損害の慰謝料の請求を、原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)に申し立てていた和解仲裁手続きで、遺族と東電は、仲介委員の示した和解案で合意し、和解が成立した。

 申立人は、東日本大震災後の3月16日、南相馬市長の一時避難の要請により、避難所等に避難したことにより、愛すべき妻であり母であり子である肉親が行方不明になった折、申立人等が肉親として当然行うべき捜索活動や慰霊行為を、原発事故により行えなかったことで申立人等が精神的な損害を受けたとして、東電に損害賠償を求めていた。

南相馬 東電は答弁書で、原発事故との間に相当因果関係を認めることは困難であると主張したが、損害賠償を認めた原子力損害賠償紛争解決センターの和解案に最終的に合意した。続く(い)
 

 右の写真は家族が住んでいた
 南相馬市鹿島区の現在の姿である。


瓦礫がかたづけられ、一面の荒野と成り果てた古里。一家は、ここで、団らんの平和な日々
を送っていた。3月11日までは。奥に見える煙を吐いている煙突と左の建物は東北電力原町火力発電所である。                                  (2013年12月14日撮影)

 

避難者に焦点を定め 現在を改善し、未来に希望をつないでゆくために・最終回(6)

現在から未来へ」(ロ)

 憲法は、居住の権利(移転を含む)、教育の権利、職業選択の自由、幸福を追求する権利、財産権の保障などの基本的人権を国民に保障しています。国は、国民がこれらの権利を享受できるようにする責務を負っています。国がこの憲法上の責務を果たしているでしょうか。原発事故の被害者が置かれている状況をかいま見た者としては、否定的にならざるを得ません。

 原発事故による避難者には、自分の判断によって、自己の現在と未来を決定する権利があります。早期に帰還するか、あるいは別の地域に移住して生活を築くか、決定するのは避難者です。そして避難者の決定が実現できる環境を整えるのが、避難者を現在の状態に追い込む事故を起こした東京電力と、原発の導入を決定し、推進し、監督してきた国の責任であり、原発を受け入れてきた地方自治体の責務のはずです。

 東京電力にこの責任の自覚はあるでしょうか? ありません。国にはあるでしょうか?

ありません。では地方自治体は?被災9市町村や福島県は、被害者に対して負っている自らの責任を明確に認識しているでしょうか?どうもそのようには思われません。自らも被害者であるかのように振る舞っているように見えます。無論、被害を受けたことは事実です。しかし、個々の被害者に対しては、原発を誘致し存続させてきた責任を免れる訳にはいきません。

 原発事故によって生活の基盤を失う被害を受け、いまもなお不安定な状況で苦しみ続けている避難者に焦点を定め、現在を改善し、未来に希望をつないでゆくための施策がどうしても必要です。そしてその施策は、国や自治体がいうような「帰還」一本槍のものであってはなりません。帰還が「元の暮らしにもどる」ことを意味するのであれば、原発事故が完全に収束し、安全な生活環境が保証されて初めて実現するものです。それが5年以内に実現するか、あるいは子の世代、孫の世代に実現するか、いま見通すことはできません。できるのは、避難されている人々の現在の生活を豊かなものとし、未来への希望を持てるようにすることです。東京電力と国には、そのために必要となる資金を提供する責任があり、また自治体には、そうした生き方を支援する責務があるのだと申し上げます。完(さい)

避難者に焦点を定め 現在を改善し、未来に希望をつないでゆくために(5)

「現在から未来へ」(イ)

 この記事をお読みの方の大部分が、仮設住宅か、借り上げのみなし仮設にお住まいのことと思います。仮設住宅の居住期限は原則2年3ヶ月、以後は1年ごとの期限延長がなされます。仮設住宅の居住環境が劣悪なのは、それが応急のためのものであり、短期間しか使用しない前提で作られているからです。仮設の入居者にとって、入居の期限は自前で住宅を確保する必要に迫られることを意味します。

 原発事故の被害者は、警戒区域の設定によって、居住や修学、職業など、それまでの生活の基盤から切り離されました。短期間で戻れるのではないかという当初の期待は裏切られました。事故から二年以上たったいまも第1原発は不安定なままで、事故の完全な収束は見通せていません。

 この二年の間に、避難された方々の生活は否応なしに変わりました。事故前とは別の職場で働き、別の学校に通っている避難者は少なくありません。被害者の現在は、事故前の生活とのつながりを保ちつつも、新たな日常生活の中にあります。そして未来は、過去へ引きこもることではなく、現在の延長上にあります。

 国は帰還が可能な区域を設定し、早期の帰還を呼びかけます。国にとってその方が都合が良いからです。そして、この呼びかけに応じるかどうかは、個々の避難者の問題であるとします。応じても、応じなくても、賠償は打ち切られることになります。

 はじめに述べたとおり、国は、国家賠償法に基づいて被害者に損害を賠償する立場にあります。国はその責任を認めていませんが、訴訟によって認められる可能性は決して少なくありません。その国が、被害の範囲を意図的に狭めようとしていることに、憤りを感じざるを得ません。続く(さい)

避難者に焦点を定め 現在を改善し、未来に希望をつないでゆくために(4)

 「区域再編」と「生活圏の再建」(ロ)

 避難指示解除準備区域は、住民の早期復帰を目指す区域です。では「復帰」とは何を意味しているのだろう、私は考え込んでしまいました。

 避難されている方の話を聞いていると、「元の暮らしに戻りたいんだ」、「金なんかいらない。元通りにして欲しい」ということを言われます。では帰還=元の暮らしに戻ることなのかといえば、そうではないと思えます。

 人が生活していくためには、どうしても必要になる条件があります。この条件は、「生活圏」という言葉によって、次のように表現されています。

 「生活圏とは、地域に暮らす人々が生活サービス機能を共有し生活の土台としている圏域、地域の資源や特色を活かした将来の姿を共有すべき圏域。生活サービス機能とは、日常の生活を営むにあたり必要となる機能であり、医療、福祉、教育、水道・汚水処理等の公共サービス、交通、購買・消費(商業)、雇用(就職)、住宅宅地、防災をはじめ、地域コミュニティ活動の場、自然環境、歴史・伝統・文化の存在なども含まれる概念」

 避難されている方々が言われる、「元の暮らし」とは、歴史の中で育まれ、上記のような機能を持つに至った地域の中ので暮らしに違いないと思います。除染や都市基盤整備を進めてみても、地域に暮らす人々の生活が回復できる訳ではありません。その地域で生まれ、育ち、働き、老いてゆく世代の繰り返しによって、生活圏は成り立つのだと考えられます。世代を重ねることのできる暮らし、それこそが「元の暮らし」であり、避難されている皆様が帰りたいと願う暮らしの有り様だと思います。

 避難指示解除準備区域に立つと、「元の暮らし」が奪われてしまったことがいやでも感じ取れます。歴史を感じさせる町並み、親子が暮らすための住宅、豊かな農地と古い農家、どこを見ても人間らしい生活の基盤があります。津波の被災地は別にして、地震による被害地であれば、相馬市やいわき市がそうであるように、元の暮らしに戻れていたに違いありません。地震で壊れた建物や設備を修理し、場合によっては建て替えて、震災前と同じ家に住み、同じ学校に行き、同じ仕事を続けるのです。家の修理や建て替えには大金がかかりますが、将来の世代のためと考えれば負担できるに違いありません。しかし、小高区で、浪江町で、住民にそうした負担ができるかといえば、疑問であるように思えてきます。

 いつの日か、小高区や浪江町や、他の町村にも、「元の暮らし」が戻ってくるに違いありません。政府は、帰還困難区域を別にすれば、その日を5年以内と見込んでいるようです。しかし政府や東京電力のこれまでの発表は、自分たちにとって都合のよいものであることが少なくありませんでした。「帰還できる」と発表すれば、そこで賠償は打ち切り。帰還しないのは、その人の勝手なのだということになりはしないか心配になります。

 いつの日か、元の暮らしに戻れるに違いないと思います。しかし、それは、国が主導的に進める帰還計画によってではなく、被害者の皆様や、その子や孫たちの意思によって取り戻すものなのだろうと考えます。いまは、国の言うことに振り回されるのではなく、自分や自分の家族や、さらに将来の世代が納得し、安心して元の暮らしに戻る未来に向けて、じっくりと考え、話し合う時ではないでしょうか。そうした話し合いの中から出てきた暮らし方を実現するために、東電や国がすべきことを要求するべきなのではないでしょうか。

続く(さい)

避難者に焦点を定め 現在を改善し、未来に希望をつないでゆくために(3)

「区域再編」と「生活圏の再建」(イ)

 平成25年5月28日、警戒地域の区域再編がすべて終了しました。警戒地域は、年間放射線量により、50ミリシーベルト以上が帰還困難区域、20ミリから50ミリが居住制限区域、20ミリ以下が避難指示解除準備区域に3分割されました。東電の財物賠償基準がどの地域に含まれるか大きく異なるために、さまざまな問題が起きていることは、被害者の皆様がよく知るとおりです。

 避難指示解除準備区域においては、早期復帰に向けた除染・都市基盤整備・雇用対策が行われることになっています。

 5月11、12日の両日、南相馬市小高地区と浪江町の避難指示解除準備区域を訪れました。準備が進めば同区域の避難指示は解除され、住民の帰還が建前上は可能となります。帰還が可能である以上、避難を継続することに伴う損失は、各人の自主的な判断に基づくものとして賠償対象外になることが想定されます。避難指示の解除は、被害者に対する損害賠償と密接な関係を有しています。では、実際に帰還することが可能となるのかどうか、自分の目で見ておく必要があると思ったからです。

 小高区は、ほぼ一年前に避難指示解除準備区域になりました。都市基盤整備が相当程度進んでいるのかと考えていましたが、実情は違っていました。

 20キロ圏外の原町区から小高区に入ると、町の様子が一変します。原町区は、一見したところ、事故前とそう変わらないように見えます。街道にはトラックや乗用車が走り、工場は操業しており、車の販売店や食堂、コンビニなどが目につきます。市街地にも人通りがあり、商店も開いています。

 「それでもまだまだだよね」

 夕食をいただいた店で聞くと、そう答えてくれました。しかし、平成23年4月14日に訪れたときの状況を思い出すと、同じ原町かと思えるほどでした。

 国道6号線を小高区に入ると、まず、通行車両が激減します。小高川を渡って右折し、市街地方向に向かっても、車は走っておらず、人の姿もありません。小高病院の建物は地震の被害を受けたままです。道路の一部が掘り返され、水道の工事をしています。街中の店舗の多くが地震の被害を受けたままになっています。小学校は地震被害の復旧工事をしていましたが、順調に進んでいるようには見えません。40人ほどのボランティアが集合場所に集まっていました。町の西側に向かいましたが、農作業をしている人を二、三人見かけただけでした。除染や都市基盤整備のための作業は行われていませんでした。川を挟んで市街に向き合う位置に、真新しい住宅が三軒立っていました。庭に子供用の自転車がありました。続く(さい)

避難者に焦点を定め 現在を改善し、未来に希望をつないでゆくために(2)

「はじめに」(ロ)

 法的義務に対する東電の姿勢はいまなお曖昧です。東電に関する刑事告発が早い段階で行われたにもかかわらず、いまもなお処分が決定していないことも、その理由の一つと考えられます。法的責任の別の側面である刑事責任の追求が曖昧になっていることが、民事責任の曖昧さにつながっているのです。

 東京電力は、被害者との和解において「謝罪」することを拒み続けています。倫理的な責任をかたくなに否定していると見えます。また原発の運転再開を求め、発送電の分離に反対して地域独占体制の維持を図る東電の姿勢は、レベル8の過酷事故を起こした電力会社が持つべき社会的責任の自覚を欠くとの非難を免れないでしょう。

 国にも責任があります。国家賠償法は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」と定めています。原発の設置、運転は国の法的な監督の下にありました。国が適正に監督していれば、事故は回避できたはずです。原発事故は、原発行政を司る公務員の職務に過失があったことによって起こったと見ることができるのです。しかし国は、今日に至るまで、自らの法的責任を直視しようとしていません。

 原発事故は、立地地域の住民と自治体はもとより、きわめて広範囲の国民に対して甚大な被害をもたらしました。事故の責任が東京電力と国にあることは明白です。にもかかわらず、東電も国もその責任を全うしようとしていません。被害者に対する損害賠償を最小限にとどめることを狙って、時間をかせいでいるように見えます。

 加害者が責任を免れれば、負担を負わされるのは被害者です。事故によって直接生じた被害はもとより、避難生活が続く中で苦痛や損失が継続し、増大しているのはこのためであると言って過言ではないでしょう。続く(さい)

冬来たる-福島県中通りに雪-

2月14日(土)から15日(日)にかけて、福島県の中通り、福島市、郡山市に12月とは思えない雪が降りました。
郡山市の市街地も一面の雪景色に変わりました。郡山雪景色1

東日本大震災から1000日が経過しました。福島県の被災者の方は、3度めの厳しい冬を迎えようとしています。
郡山雪景色2

私達の車も、雪に埋もれました。雪がめったに降らない群馬育ちの大人たちは、どこか楽しそうです。 
郡山雪景色3
 

避難者に焦点を定め 現在を改善し、未来に希望をつないでゆくために(1)

「はじめに」(イ)

 原発事故被害地域の住民の苦難は、東電福島第1原発の爆発から始まりました。被害地域の特に沿岸部が、地震と津波によって、他の被災地と同様の大きな被害を受けていたのは事実です。しかし原発事故さえなければ、避難に伴う苦痛も、避難生活の厳しさも、復興の困難さも、はるかに軽減されていたはずです。

 原発事故がいま現在も終息せず、いつ終息するのかの見込みも立たぬまま深刻な状況が続いていることによって、被害者と被害地の苦難はいまも加重され、拡大し続けています。被害者と被害地域は、先の見通しが立たぬまま、いつ終わるとも知れぬ苦難に直面しているのです。

 原発事故の責任は、第1に原発事業者である東京電力にあります。原発事故の被害者に対して、東京電力は加害者の立場に置かれます。加害者が被害者に対して法的な責任を負うことは言うまでもありません。法的な責任を全うすることは、加害者が果たすべき最低限の義務です。加害者である東京電力が負うのは法的責任のみでしょうか。いいえ。「企業倫理」という言葉が示すとおり、東京電力は事故に伴う倫理的責任も果たさねばなりません。さらに、企業は社会的な存在です。東京電力は事故に伴う社会的責任も果たさねばならないのです。

 では、東京電力は法的責任、倫理的責任、社会的責任を果たしたか、あるいは果たそうとしているでしょうか。答えは「否」です。過去二年間の東京電力の対応をみると、あたかも自社を「被害者」と見なしているかのようです。

 東京電力は当初、被害者に対し「賠償」ではなく、「補償」という名目で支払いを始めました。「賠償」は不法行為に伴う損害の弁償を意味します。これに対し「補償」は、適法な行為に伴う損害の弁償を意味します。東京電力が「補償」の語を使ったのは、自らの不法行為責任を否定するためだったと考えられます。続く(さい)

福島県大玉村仮設住宅自治会の決断・最終回(5)これからの生活を考える

 この自治会では、いち早く見守隊による巡回や、高齢者の安否確認のための黄色い旗活動(旗を目印とした一人暮らしの高齢者の方の安否確認)等を行い、孤立や孤独死をできるだけ防ごうとさまざまな活動を行ってきた。

 私達が訪れたときも、集会場には、大玉村の人々との様々な交流の写真、自治会で借りた田の田植え風景の写真などが飾られていた。収穫したもち米で、餅つき大会をやった話も聞いた。私達がお話を伺った集会所の道路の反対側の仮設の一角に皆で刈ったという脱大玉村稲穀前の稲が干してあったのが印象的であった。

 幸いと言うべきか、復興住宅は、仮設住宅の隣接地に建設される。それゆえ、今ある自治会ないしコミュニティを維持することも出来なくはない。継続して仮設に入居されている方達との交流も、しばらくは今と同じように出来るかも知れない。

 仮設住宅の入居期限は平成27年3月まで延長された。しかし、何時までも住めるわけではない。事実、仮設住宅の基礎に打ち込んである丸太は、足で蹴飛ばすとグラグラと揺れるという。仮の住宅の耐用年数はそう長くはない。仮設住宅はいずれ出なければならないのだ。決断を先延ばしにすること、それは、自らの人生設計の決断を先送りすることでもあるのではないだろうか。

  復興住宅に入居を希望する人たちも、その思いは一様ではなく様々であろう。帰還するか移住して別のところに家を建てるまでの仮の住まいと考えるかもしれないし、他の家族の生活計画が決まるまでの、とりあえずの住いと考えているかも知れない。一方、復興住宅を終の棲家と思う人もいよう。

 年齢の比較的若い人たち、高齢の方、思いはそれぞれであれ、彼らがこれからの人生に向かって一歩を踏み出す、踏み出そうとしていることは間違いない。

 同じ仮設住宅に2年半共に生活を送って来た人たちが、まもなく移る人と残る人に分かれ、それぞれの道を歩み始める。しかし、どちらに進むにしろ、元の生活を取り戻すための道は長い。苦悩は続かざるを得ないのだろうか。 (さく&い)

原子力損害賠償紛争審査会‐住宅の賠償、土地の追加賠償‐(2)

避難者の移住支援・住宅賠償引き上げ案
政府の原子力損害賠償紛争審議会は12月9日、東京電力福島第一原発事故の賠償範囲の拡大に向け、追加賠償指針の原案を示した。避難を余儀なくされた被災者の住宅購入支援などが柱。早期帰還が見通せない避難者の移住の後押しがねらいで、12月26日にまとめる予定の新しい賠償指針に盛り込む。原案の最大の柱は、避難者が移住先で家屋を購入しやすくしたこと。築48年超の木造住宅について、賠償の基準を現在の2~4倍に引き上げる案を示した。地価の高い都市部に住む被災者の住宅購入が難しい現状を考慮した。一方、国の避難指示区域の住民に支払われる一人あたり月10万円の精神的な損害賠償(慰謝料)を、指示解除後、原則一年間で打ち切るとした。帰還するかどうかにかかわらず支払う。現在の指針は、事故から最長6年間支払うとしている。避難指示が長期化する地域の住民には、故郷を失うことへの慰謝料を新たに一括で支払う方針を明示した。対象は、帰還困難区域のほか、居住制限区域と避難指示解除準備区域も含めた。(東京新聞・2013・12・10)
 
なお、第38回原陪審の追加賠償指針原案は以下のサイトで見ることができます。今回は案ですので、内容がかなり具体的になっています。(し)
 

福島県大玉村仮設住宅自治会の決断(4)建築形態は戸建て

建設計画の概要

 自治会から伺った具体的な建設計画の概要は、次のとおりである。なお、富岡町から取材した話も一部加えてある。

 建設場所は、大玉村にある安達太良応急仮設住宅4区画のうち、必要がなくなったため取壊された2区画の跡地で、現在の仮設住宅に隣接している。建設は大玉村がする。それは、地元業者をなるべく使いたいから、ということだった。福島県の復興住宅計画とは別枠である(富岡町役場の話では、県営ではないと言う趣旨ではないかという)。

 建設戸数は、約65世帯分で、費用の8分の1は大玉村が負担し、8分の7は県と国で負担する(復興庁が県に交付するコミュニティ復活交付金を活用)。

 建築形態は、自治会の話では、集合住宅でなく、一戸建て(2DKと3DK )と二戸建て(4DK二階建て)の種類がある。この点、富岡町役場によれば、正確には、平家建、2階建、および2戸1棟型(メゾネット方式)があり、大きさは3LDK2階建てを主に考えているとのことであった。戸建てにすることは、自治会が要望したとのことであった。自治会では、建設図面が出来た段階で事前にその内容を開示してもらい、計画に対して不足や改善点があれば町に対して要望を出す予定であるとのことであった。

 完成予定は、27年度中の予定だが、富岡町は出来るだけ速やかな完成を福島県に要望している。自治会では、27年3月までの完成を希望しているとのことであった。

 (取材後、大玉村が10月21日に開いた村議会で、来年度(26年)中の着工・完成を目標に災害公営住宅の整備を進めていくことに決定したとの報道がなされた。)続く(さく&い)

福島県大玉村仮設住宅自治会の決断(3)仮設住民意向調査

復興住宅建設のための住民意向調査

 現在大玉村安達太良仮設住宅には、現在208戸(世帯主がひとりでも2家族二戸借りている)、194世帯が居住している。その住民を対象に、自治会では、復興住宅建設のために住民の意向調査を記名式で2回行っている。一回目は3月。調査の目的は、これから大玉村大玉村仮設住宅に住む希望があるか否かを知るためで、その結果、約100戸から回答があり、住むことを希望したのは80戸であった。

 2回目は5月。「大玉村に建設する復興住宅に住む希望」があるか否かを調査の対象にした。その結果、83戸(約100回答)が復興住宅への入居を希望し、17戸は住まない意向を示したとのことである。どちらの調査も回答率は50%で約半数の戸からは回答を得られなかった。

 富岡町でも、自治会の調査の後、8月に住民意向調査を実施している。その調査結果では約60世帯の住民が復興住宅に入居したい意向を示した。

 その結果、83戸が記名で住む意向を示したのだから、復興住宅はその数を基準にして欲しい旨の自治会の申し入れにも関わらず、建設計画では65世帯分の建設予定となったとのことであった。この件に関しての、富岡町役場の担当は、自治会調査から少し時間が経っており、その間、他に土地を購入し仮設住宅を離れた人や、生活設計が変わった人もいること、また、建設のスピードも重要だということで、この建設数で自治会も了解しているとコメントしている。これに対し、自治会では、これから先、復興住宅に住む希望の住民が出てきたら追加工事を要請したいと述べている。

 

 鎌田自治会長には、心残りがある。それは、住民の約50%が意向調査に未回答だったことだ。鎌田会長は話す。「回答のない残りの50%100世帯の人たちが、これからどうするのか心配だ。大玉村に復興住宅が出来て、住民の一部が移り住んだ後、仮設に住み続けている人達は将来に向かってどう決断するのだろうか。行政はちゃんとフォローしてくれるのだろうか。」「すでに、他の復興住宅に入居を希望するなど明確な方針を持っている方もいるかもしれないし、まだ、先のことを考えられない方も、たくさんいらっしゃるかもしれない。とにかく、50%の人達が意志を表明されないので、今何を思っているのか全くわからない。

取り越し苦労かもしれないが、先行きを考えると様々な問題が起こる様な気がする。」

 

 未回答が50%であることをどう考えるのか。50%もの人が意向を示したというのは、活動の活発なこの自治会だからこその高さである、とみることもできる。

 しかし、半数が回答なしであることに少なからずショックを受ける。何故回答がないのか、それとも回答できないのか、2年半もの過酷な仮設住宅生活が原因で精神的に疲れて果てているのか。家族や仕事、お金や賠償問題など様々なことが絡み合って、まだ決められないのだろうか。実相はブラックボックスの中だ。

 こうした状況にもかかわらず、復興住宅の建設計画は65世帯分の建設予定で進行している。これから先、復興住宅に入居を希望する住民に対しては追加工事等、柔軟な対応を行政には要請したい。続く(さく&い)

福島県大玉村仮設住宅自治会の決断(2)仮設入居期限と復興住宅建設要望

応急仮設住宅の入居期限と復興住宅

 応急仮設住宅の入居期限は、当初2年間とされていた。しかし、現在の復興状況の遅れを踏まえて、平成27年3月末まで延長された。同時に、民間賃貸住宅を使った「みなし仮設」の入居期限も平成27年3月末まで延長された。さらに、先日の報道によれば、更に入居期限を平成27年同年4月以降は、代替的な住宅の確保などの状況を踏まえて適切に対応するとし、再延長も視野に入れているとされる。

 入居期間の延長、再延長は、被災者の住宅確保という意味では、意義深い。しかし、応急仮設住宅の耐久性や被災者の方の心と体が、長期の仮設の暮らしに耐えられるのだろうかという疑問に対して、入居期間を延長するのみでは答えとはならないことは明らかだ。

 ひとつの解決手段として復興住宅(正式には災害公営住宅)の建設がある。被災者の方が、「もっと恒常的な住まいが欲しい。もっと快適な居住空間がほしい」と願うのは率直な要求であろう。その要望に答える形で、国・県・自治体の主導で復興住宅(正式には災害公営住宅)の建設計画が、進んでいる。大玉村の復興住宅の建設計画もその一部だ。

 

復興住宅建設の要望

 安達太良応急仮設住宅の自治会が、その隣接地に自分たちが住む復興住宅を建設したいという要望を国、福島県、富岡町に提出し、それが実現に向かっている。

 「富岡町大玉村出張所だより」今年4月号は、3月30日に開催された同自治会の総会で、災害復興住宅建設に対する意見が数多く出されたと伝えている。記事には、総会の模様と、鎌田自治会長の「仮設住宅の住民の一部から、大玉村内に復興住宅を建設して欲しいという声があり、根本復興大臣に、大玉村に災害復興住宅建設の要望書を提出した」との報告と写真が載せられている。

続く(さく&い)

福島県大玉村仮設住宅自治会の決断(1)

大玉村自治会

 福島県の中通りにある大玉村には、原発事故で富岡町から避難してきた住民のための応急仮設住宅がある。安達太良応急仮設住宅だ。現在、約208戸、194世帯が居住している。その仮設住宅の隣接地に、今、復興住宅(正式には災害公営住宅)の建設計画が、進んでいる。

 仮設住宅の入居者の住所地である富岡町は現在、帰宅困難区域、居住制限区域、避難解除準備区域の三つに分かれている。帰還か移住かと、これからの生活を、一人ひとりが自分で考え決断していかなければならない中、住民自らの意思で、現在の仮設住宅の隣接地に復興住宅を建設し、将来の暮らしに向けてひとつの方向性を探り、その実現に向けて活動している自治会の例は、少ないだろう。

 私達は、10月26日、現地へ取材に出向き、鎌田自治会長他2人の役員の人たちからその状況を聞いた。続く(さく&い)

シンポジウム・パネル討論最終回(24)「この国に生まれた不幸」

司会者 呉秀三さんという精神科で日本最初の先生がおられますが、呉秀三さんの言葉に、「実にこの病にかかりたる者」、この病とは精神科の病気です。「実にこの病にかかりたる者は、この病にかかったというほかに、この病にかかりたる不幸のほかに、この国に生れたる不幸が重なるものと言うべき」と。非常に難しい病気にかかったこと以外に、この国に生まれてしまったという不幸があるというふうに言っています。

 原発事故の被害者の方々を見ていると、全くそれと同じ言葉が使えると思います。原発事故の被害者になってしまったという事実に加えて、あるいはそれに重ねて、この国に生まれたという不幸があると、つくづく私は思います。

 このことをきちんと考えて、そういう言葉が出ないようにする責任があると思います。

 

野田正彰 鎌田慧さんの話が出たから、これは補償の問題に関わるから、ちょっとそこの切り口から言いますが、秋田県で花岡事件がありました。花岡事件は謝罪をしない悪くはないと、ただ、かわいそうだから、5億円を出すという和解をしました。で、原告団は「それは人間の尊厳に対する冒涜であり、日本人は自分たちを戦争で殺した上に、この裁判で二度、私たちをだました」と言っています。で、原告団はお金の受け取りを拒否して、当時の東京高裁から弁護団に抗議文を送っています。今、新聞記者の方から「個々の新聞記者は善意でやっています」と言っているけれど、その抗議文も含めて、全部報道しなかった。うそばっかりです。

 これほど悪い社会をつくってきたのは、日本のマスコミも一端の責任がある。これはマスコミだけという意味ではないです。だから、みんなが自分の職を選んだときに、そういう伝統の中に入っていくという自覚なしに、何で世の中が変わるでしょうか。鎌田さんは、こういった花岡の和解の姿を、ずっとキャンペーンしてきている人です。私は、鎌田さんと親しかった。彼の本の解説を私が書いたりしています。だけど、今、賠償のことで思いますが、同じ手が使われているかと恐れています。原発は悪かったということを一切言わないで、かわいそうだから、少しお金をやるっていうことで、ここらで落としをつけようという話になる可能性があります。

 これが私たちの社会ですから、だまされないでください。そういう民主主義は素晴らしいとか、そういうツルっとした言葉を言う人が一体何をしているかということを問いかけないといけないと思います。完(し)

シンポジウム・パネル討論後半(23)「突然、当事者になった私の闘争」

避難者 私の場合は今回当事者になってしまいましたので、あと残り余生全部、闘うつもりです。市民運動をどのぐらいやれるのか、避難者の立場として、被害者の立場として、子どもたちのためにやれることをやるということです。あとは、このことを知った皆さんにも動いてほしいし、皆さんと協力してやりたいと思っています。

 賠償問題に参加している人たちが、自分の賠償のみを求めているわけではないということはご理解いただきたいと思います。国相手の訴訟をやるわけですから、ほとんど勝ち目はないです。勝ち目はなくて、最終的に落としどころを持ってこられて、どんどん、どんどん数が減っていく、少ない原告団が残るという形になっていく。その流れは、大体どれもパターンは一緒だと思いますが、その中でも何かしら勝ち取って、みんなのためになることがあればということで動いています。個人の賠償を求めて動いている人々ではないということは、ご理解して見ていただけたらと思います。

 

新聞記者 東京五輪招致が成功して招致が決まると、もう被災地の復興も全部OKみたいな感じになっています。ぜひそこだけは、くぎを刺して五輪の成功と被災地の復興とは別である。とりわけ私は福島で取材活動をしている人間ですから、福島の救済は別物であるということを常に記事の中にメッセージを盛り込んで伝えています。1人の記者としては微力ですが、必死にもがいて、一生懸命やっていきたいと思います。

 それと、多少PRですが、避難者の方々、あるいは福島に関わっている方々で、政府に言いたいこととか、こんなふうに思っているということを、ぜひ、身近にいるメディアの人、記者の人、私でもいいですし、どんどん言ってください。そういうものから記事も生まれてきます。メディア機関もいろいろありますが、私たち何か政府に誘導されて何かを隠しているわけではありませんし、一人ひとりは健全に取材活動をして、知るべきことを書き、知ったことを書き、よきものはいい、悪いものは悪いと、是々非々の立場で日々記事を書いております。その点だけは、どこの会社も関係ありません。フリーだろうが、企業に所属している記者だろうが、それぞれの記者は健全にやっていると私は信じております。声を寄せていただければ、それが本当に記事の元になります。私たちの知らないことも多々ありますので、いろいろ気付かせていただければありがいと思います。続く(し)

シンポジウム・パネル討論後半(22)「もう本当に嫌になるな」

野田正彰 私はペレストロイカの後、ロシア、東欧圏の取材をしていて、つくづく思いましたが、ジャーナリズムというのは編集だけです。共産党書記局が各地域の発表をして、紙に書いたものをくれる。それをうまく編集して、切り取ってつくっているわけです。だから直接取材というのはほとんどしない。モスクワ大学のジャーナリズムの学科では全部それを教えています。

 日本の新聞社もそれに近いです。記者クラブの発表をうまく切り取って、写真を添えて、編集しています。その程度に、時々地域の取材したお涙記事を入れて、新聞をつくっているわけです。そういうので私たちは世の中を知っているつもりにさせられている。しかし、これを支えているのは私たちです。変えていかないといけないですよ。

 本当に自分なりにすごいことだと判断したら、それを積極的に投書したりして、言っていくことじゃないでしょうか。そして人と討論して、自分の知っていることがあまりに分析力が浅いということに気付きながら深めていく。やっぱり生きていることの楽しさというのは、人間ですから、そういうことを一つずつ深めていくことが楽しいということではないでしょうか。

 

司会者 全くもって非常に難しいシンポジウムになりました。事前にある程度流れを考えていましたが、全く弱りました。でも、色々な問題がすごく深刻で、「もう本当に嫌になるな」と思いながらも、生きていくべきでしょう。そういうものを見ながら。

 

司法書士 今までの議論のなかで、お金のことが出ても「お金のことばかり言うな」というようなことを言っていました、損害賠償というのは、日本では金銭賠償が原則になっています。その面ではお金のことを言わないと、損害賠償が成り立たないという部分があります。お金のことをきちっと考えていくということも必要ではないかと思います。そういう面では、損害賠償の基準が今出ていますが、それを見直していく作業とか、時効の問題とかいろいろありますので、それは今後、司法書士として考えていきたいと思っています。続く(し)

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