福島原発事故とこれからの生活を考えるblog

by原発事故被害者支援司法書士団 team of shihosyoshi to support compensation for nuclear accident victims         

福島第一原発の事故で失ったものは何でしょうか?
様々なものが失われました。
失われたものを取り戻すために、何をすべきなのでしょうか。

2014年01月

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(8)-

平成25年初冬の広野町駅の周辺は、一見、平成23年4月にリポートした状況とあまり変化が感じられなかった。駅前の商店街は閑散とし、通行人の姿も見当たらない。異なった点と言ったら、駅前の信用金庫が営業を再開し、当時商店街の外れに置かれていた進入禁止の看板が撤去されていたぐらいだろうか。

広

駅前広場にはタクシーが2台、所在無さそうに客待ちをしていた。やはり、人影はない。常磐線は、まだ全線開通していていない。現在は広野町が終着で以北は開通しておらず、いわき・水戸方面に1時間に1本の間隔で運行している。広野町駅が終点で折り返し運転中だ。





広2


ちょうど列車が発車するところだった。女性の車掌が身をのりだし、それほど多くはない乗客の安全を確認し、ドアを閉めた。列車が発車し、一時の喧騒が去り再び静けさが戻る。

広2
電車が占めていた空間がポッカリと空くと、歩線橋を渡った向こう側プラットホームの五つ並んだ青い椅子の先に、津波被害地の荒涼とした景色が現れた。さらにその先、防風林の先には青黒い海が広がっている。何一つない荒れ地の広がり具合からすれば、津波はちょうど駅の向こう側まで押し寄せたに違いない。


jR常磐線は、広野町を縦割りするように走っている。線路は高さ6m程土盛りをした上を走っている。線路をはさんで海側と陸側では全く光景が異なる。海側は津波で破壊尽くされているが陸側は何事もなかったように家々が建ち並んでいる。線路の脇に立ってみると常磐線が防潮堤の役割を担ったということが歴然とわかる。これは地元の人達も口々に言っていることだ。(い&さく&し・続く)

                                                                                                                        

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(7)-

一方、広野町の広報誌「広報ひろの」によれば、町民の帰還は、進んでいない。

同誌によれば、解除から2年2ケ月が経過した現時点(H25.12現在)でも実際に居住している人は、総人口の約30%、町内居住世帯数は総世帯数の35%にすぎない。(世帯数の変化は殆ど変化が無いのにもかかわらず、総人口は平成24年8月末日から平成25年12月25日の間で1019人減少している。帰還は促進されず、世帯を構成する家族数の減少が進んでいるのが現状だ。)

東電の精神的損害賠償金の支払いが打ち切られた「相当期間」経過後の平成24年8月末日から平成25年12月25日までの1年4ヶ月間の増加世帯数をみても、増加世帯数は393世帯、町全体世帯数から考えれば、増加率はわずかだ。(下記参照)

・平成24年8月末日現在(精神的損害賠償が打ち切られた「相当期間」経過時)の広野町の世帯数は1,905世帯、総人口5,246人

現居住者数(平成24年9月20日現在)

     :町内居住者数 493人

     :町内居住世帯数 290世帯

・平成25年11月末日現在、広野町の世帯数は1,947世帯、総人口4227人

現居住者数(平成25年12月25日現在)

     :町内居住者数 1,300人

     :町内居住世帯数 683世帯    (広報ひろの)

中間指針第二次追補では、緊急時避難準備区域が解除され「相当期間」が経過した後は、元の生活に戻ることができる条件が整い、避難されている方々は帰還していることを想定している。戻れない状況であるならば、賠償金は継続して支払わなければならない。元の生活に戻り、精神的損害が消滅したことが賠償金支払い打ち切りの前提にある。しかし、今のところ、上記の統計が示すように、避難されている方々の帰還への動きは緩慢だ。なぜ、戻らないのだろうか。今の広野町の状況で中間指針第二次追補に掲げる「避難者が従前の住居に戻るための準備」は本当に整ったといえるのだろうか。(い&さく&し・続く)

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(6)-

平成23年4月のリポート

6号線から広野駅方向に右折、広野町の本通りを行く。歩いている人の姿はまったくなく、車も走っていない。広野駅前広場に車を止めて町を歩く。広野駅は福島第一原発から23キロ前後にある。街道沿いの町並みの向こうの高台に、白いコンクリートの学校が見える。駅に入る角の料理店で男性が二人、片付けに来ていた。食材の腐った臭いがする。住民は屋内退避しているのですかと聞くと、「みんな避難してだれもいない」と答えた。街道を少し歩くが人気はまったくない。信用金庫も、店も、医院も閉まっており、住宅は無人だ。午後2時の明るい日差しの中で、広野町は静まり返っていた。猫が一匹、犬が一匹いた。街道から北を見ると、広野火力発電所の煙突があった。車で街道を進むと、小さな川があった。川の周囲には津波が押し寄せたあとがあった。川の先を右折すると、左側に「高野病院」があった。高齢者の施設が併設されている。病院の駐車場にはたくさんの車が停まっていたが、人はだれもいなかった。                                                                                                              

1号3

6号線に戻って北上すると、広野火力発電所前の交差点で交通規制がされていた。柵が置かれ、パトカーと機動隊の車両があり、警官が立っている。ここから先は20キロ圏内で、立ち入ることができない。左折すると工業団地があった。操業はされていない。


3年前の写真とキャプション 交通規制がされている道路。奥に見えるのが広野火力発電所の煙突。

平成25年12月


広野町は、福島第一原子力発電所の南20~30キロの圏内に在る町だ。同町は、平成23年9月30日に緊急時避難準備区域が解除され、街に帰ることを妨げる法的な制限は無くなった。緊急時避難準備区域の解除は、東電に対する原子力損害賠償と深い関連性がある。同区域の解除に伴って、一人月額10万円の精神的損害賠償額(避難費用のうち通常の範囲の生活費の増加費用を含む。)の賠償金の支払いは、特段の事情がある場合を除き、「相当期間」経過後の平成24年8月末で賠償の対象から外された。賠償の対象から外された理由および条件は、原子力損害賠償紛争審査会中間指針第二次追補(平成24年3月16日)に挙げられているが、要約すれば、平成24年8月末には、インフラが復旧し、学校に通学できる等の環境が整い、避難者が従前の住居に戻るための準備が整い、帰還を妨げる障害は無くなったと想定しているということだ。現実はどうだろう。確かに、基礎的インフラは整備され、小中学校も再開した。妨げとなっている大きな事由のひとつである放射能汚染に対する除染も、一般住宅などの除染作業の進捗率は、平成25年5月29日現在で97.1%、生活圏の20メートル範囲の森林除染は92%が終了したと報告されている。(い&さく&し・続く)

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(5)-

大久川を下り、河口近くに行くと、川の洲に津波によって運ばれた砂が川をせき止めるように盛り上がっていた。さらに防波堤の脇を進み、小高い丘を回りに廻りこんだ先に、久之浜港がある。
久8

久ノ浜漁港は、自動車、漁船、瓦礫など津波により破壊されたものは、ほとんど撤去され、一見しては津波の痕跡は見あたらない。広々とした駐車場は舗装されていたが、漁業施設等は整備されておらず、漁港としての機能回復までには至っていないようだ。

久5









復旧工事中の水揚げされた魚のセリのための市場が海岸べりに立っている。市場は、堅固なコンクリート造りなので扉や窓枠は全て破壊されていたがスケルトン部分は完全に残った。                             

久6



                                           

津波対策のため船の接岸壁は1mほどかさ上げされている。漁港の外側には新たに嵩上げされた白く輝く防波堤が見える。ここにも津波災害復旧工事の看板が立てられていた。湾内には数十艘の漁船が行く当てもなく係留されている。休日のためか、全く人影がない。(い&さく&し・続く)

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(4)-

災害公営住宅建設地の脇を海側に折れ、大久川沿いにくねくねと細い道を進む。

久2

川を遡った津波は、川沿いの家々を軒並み破壊尽くした。建設地の下には、撤去されずに残されている家や、家が流され基礎だけが剥き出しに
っている敷地が、まだ、当時のまま残っている。(写真 津波は家の中を走り抜け屋根と外壁だけを残した。左奥に災害公営住宅地の擁壁が見える)




久4





  破壊された家は撤去され基礎部分だけを残す。




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   流出家屋基礎撤去工事の看板がある。

   まだ、撤去工事は完了していない。

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(3)-

前回で紹介できなかった写真を掲載します。久


久ノ浜災害公営住宅建設地を海側から見るが、擁壁が高く、工事用の塀も巡らされているので建設地内部はうかがえない。


復興住宅7ひ







   

表に回ると内部が見えた。基礎工事中である。


復興住宅6ひ





  
  完成予想図の看板があった。8階建及び7階建の集合住宅2棟が建つ。


3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(2)-

平成23年4月のリポート

久之浜漁港で初めて、津波による被害を目の当たりにした。6号線の東、浜側の建物は、壊れた倉庫を除いてなくなり、自動車や漁船や、瓦礫が浜側に寄せ集められている。港にはだれもいない。

--------------------------------------------------久ノ浜


平成25年12月

常磐自動車道のいわき四倉インターチェン
ジから
東に245号線を進むと、いわき市久
之浜町に出る。
久之浜地区はいわき市の
北,広野町に達する手前
に位置する。久之
浜も津波被害地だ。国道を境に海
側の地
域が被害にあった。



(写真 245号線跨線橋から久ノ浜を望む。手前は常磐線、沿って走る6号線。中央岩肌の見える山の下が大久川の河口となっている。2013年12月15日撮影)




その一角に災害公営住宅が建設中だ。建設地復興住宅1ひは、国道6号線を北上した右手にある。
完成予想図が工事現場の入口付近に掲げられている。工事は基礎工事の段階だが急ピッチで進んでいる。建設計画では、共同住宅は鉄筋コンクリート造り2棟で、8階建64戸と7階建56戸の合計120戸で、2LDK60戸、3LDK60戸が予定されている。 戸建は16戸〔下記意向調査は18戸となっている〕で2LDK8戸、 3LDK8戸。153㎡の平家の集会場もある。建築費用は、町が8分の1、国が8分の7を負担する。入居者の募集は昨年10月22日に開始され、12月24日で締め切られた。いわき市が、平成24年3月13日から15日に行った入居意向調査では、震災で家を失った対象世帯はいわき市全体で6367世帯、そのうち入居希望世帯は1634世帯であった。久之浜地区の入居希望者は定数120に対し107で倍率は0.89倍だが、そのうち戸建の希望者は定数18に対し希望31であった。(続く)


(写真 災害公営住宅地の擁壁が前方に見える。大久川中央に傾いた橋桁が残っている。この川を競り上がった津波が岸辺の家と橋を流し去った。2013年12月15日撮影)

3年前の原発被害地ルポをなぞる-久之浜・広野町編(1)-

東日本大震災、福島第一原発事故の直後の2011年4月、群馬司法書士会は、 群馬司法書士新聞震災対策特別号1号を発行している。その1号の特集記事は、震災・原発事故直後の広野町・南相馬市のリポートである。その時からもうすぐ3年が経とうとしている。震災・原発事故直後と今とは、何が変わり何が変わっていないのだろうか。 私たちは、広野町・南相馬市の今をリポートするため、昨年12月、再び1号リポーターと同じルートをたどった。



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平成23年4月のリポート

414日午前9時。

群馬県太田市から北関東自動車道に入り、東北道から磐越自動車道を経ていわき市に向かう。東北道は那須塩原インターから先が、地震のため橋などの部分が盛り上がっている。簡単な修理がされているが、うねるような場所もあって運転には注意を要する。

交通量は少なめで、「災害派遣」の表示をしたトラックや地方自治体の車が少し目に付く程度だ。栃木県北部から屋根にシートをかけた家が目に付くようになり、相当の揺れがあったことがわかる。

磐越道は、東北道に比べてさらに補修した路面が多く、注意しないとハンドルを取られる。交通量はさらに少ない。いわき三和インターから先が通行止めのため、一般道を国道六号線に向かう。いわき市のバイパスを経て、海岸線を走る。



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平成25年12月

上記と同じようなルートをたどり、いわき市に向かう。

東北道、磐越自動車道共に、交通量は通常時と変わらない。地震の影響で所々道路状態が悪いのは相変わらずだ。災害派遣のための車両は見かけなかった。宇都宮を過ぎると雪がちらついてきた。福島県中通りの仮設住宅の避難者は慣れない雪国の2回目の厳しい冬を迎えようとしている。(続く)

雪



  



   会津若松市仮設住宅の冬はさらに厳しい。
    凍り付いた引き戸を湯で溶かす事から一日
    が始まるという。(2012年1月14日撮影)






雪2

    


雪かきは厳冬期の日常作業だ。
浜通りから
の避難者にとって
慣れない重労働となる。
 
(2012年1月14日撮影)




 


 

東日本大震災復興支援シンポジウム開催

開催趣旨

 東日本大震災及び福島第一原子力発電事故から、まもなく3年を迎えようとしている現在においてもなお、行政が把握しているだけで、27万8000人もの避難者の方々が全国におられます。近畿圏内では、3700人余りの避難者がおられ、将来の生活に不安を抱えながら、支援の行方を見据え、避難者自身がどうすべきかを悩んでいます。とりわけ、広域避難者の方々は、地元の情報を知る機会も少なく、各種報道等が減る中で疎外感を感じています。

 このような状況のもとで、被災者の方々が生活再建の目的を果たすためには、まず、住まいの問題を解決することが喫緊の課題であると考えられます。

 そこで、阪神・淡路大震災を経験した当会が主体となって、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故の被災地の現状を踏まえ、避難者自身が、また、我々が支援者として、住宅の問題に対して、何ができるのかを一緒に考え、被災者に対し、継続した情報提供と支援を行うことを発信し、意識の共有を図るために、下記のとおりのシンポジウムを開催いたします。

 

  「東日本大震災と住宅問題シンポジウム 

~阪神・淡路大震災の経験から~ 」

開催日時  平成26年1月25日(土) 午後1時30分から4時45分

開催場所  兵庫県司法書士会地下ホール

        神戸市中央区楠町2丁目2-3

開催内容

Ⅰ.基調講演 「災害公営住宅、借り上げ住宅等の現状と諸問題」

         立命館大学政策科学部教授 塩崎 賢明 氏

Ⅱ.司法書士活動報告

群馬司法書士会・兵庫県司法書士会担当者

Ⅲ.パネルディスカッション

    パネリスト  塩崎 賢明 氏(立命館大学政策科学部教授)

           森川 憲二 氏(弁護士)

           古部真由美 氏(東日本大震災県外避難者西日本連絡会

代表世話人)

           藍原 寛子 氏(ジャーナリスト)

    コーディネーター 島田 雄三 氏(司法書士・兵庫県会)

対  象  避難者、関係団体、司法書士、その他(定員80名)

主  催  兵庫県司法書士会

後  援  阪神・淡路まちづくり支援機構、近畿司法書士会連合会

群馬司法書士会、原発事故被害者支援司法書士団

被災者が生きる時間に寄り添って(最終回)

海岸地域はどうなっているのか(ハ)

 大川小よりはるかに海に近い相川小学校では、祖父が連れ出した子ども一人だけが死亡、他の全員は助かっている。相川小では、いつも通り裏山の神社(3階建ての相川小学校の校舎と同じ高さの所)まで避難。巨大な津波をかなたに観て、教職員は子どもたちを誘導し、急斜面を登ってさらに山の上の方に逃げている。

 学校を信じていたのに、なぜ私たちの子どもは死ななければならなかったのか。親が迎えに行った子どもは助かっている。学校は何をしていたのか。親である私が何をしていたのか。憤りと自責のないまざった思いで、子を喪った親たちの教育委員会追求は今も続いている。

 それに対して、教育委はなぜか嘘を発表し続けた。咄嗟に山に逃げ、一人の生徒と共に生き残った遠藤先生からの聞き取りとして、市教育委は「山を越えて雄勝側に行けば、車道に出て助かるかもしれないと考え移動した。周辺を照らしていた車の中で夜を過ごした」と述べている。ところが当日、まだ明るい頃、近くの千葉正彦宅へ来て泊まっていたことが、後日分かった。当日の教員集団の思考停止をよく知っていると思われる遠藤先生は、二年たった今も、精神的外傷後障害にあるとして休職が維持されている。所在も全くわからない、とされている。なぜここまで当日を知る教師を隠さなければならないのか。

 震災時、休んでいた校長は6日間学校に来ず、遺体探索にも加わらなかった。もともと自主性の乏しい校長だったと、保護者に見られている。辞めないと言っていた、この校長は翌年退職している。石巻市長は11 年6月(第2回)の説明会で、二人の子どもを亡くした父親の悲痛な問いかけに、「もし自分の子どもが亡くなったら、自分の子どもに自分自身に問うしかない。これが自然災害における宿命だ」と答えている。教育委は、どこに逃げるかマニュアルがなかったから、と報告書を出した。マニュアルのない、ずっと川口の相川小で全員が助かっているのに、である。

 問題なのは、マニュアルの有無ではない。日頃の教職員の意思決定がどうなっていたか、である。権威的で、上意下達のシステムは想定外の事態に弱い。すての職員が過不足なく意見を言うことができ、気付きを共有できる民主的な人間関係こそが、危機に強い。それは1980年代初めからのヒューマン・エラー研究で定説となっている。校長の仕事とは、活き活きとした学校文化(校風)を創ることである。市教育委はそのような校長を育て、任命し、支えなければならない。現状は逆に、上意下達、書類報告づくめ、教師と子どもを精神的に萎縮させる教育が文部科学省によって強制されてきた。問題はこの追求を抜きにして、少しも解明されないだろう。

 福島県の被害者支援に集中するのも良い。東京電力と原子力発電行政を追うのも、重要なことである。ただし、すべてのことが同じ社会で起こっており、問題を引き起こす思考は似ていることを忘れてはならない。私たちは災害支援を通して、何かの専門家である事を超え、被災者と同じ人間に戻っていくのである。(完)

被災者が生きる時間に寄り添って(6)

 海岸地域はどうなっているのか(ロ)

 この時とばかり三陸海岸部の小さな漁業をつぶして、大手の資本を入れようとした策略はどうなったのか。瓦礫処理に土建業の利権はどのように関与しているのか。なぜ仙台はすぐ津波バブルの都市と化し、復興頽廃とよびたくなる現象が起きているのか。

 一例として、宮城県石巻市の北端、大川小学校の被災について述べよう。私は震災一ヵ月後の4月上旬、北上川の壊れた橋を迂回したとき、山際まで廃墟となった大川地区、地盤沈下のため泥水に浸るコンクリート造りの大川小に出会った。それから4度、同地区を訪ねている。

 今は沈下して浅瀬のようになった前庭に、幼児を抱く母の石像が建っている。亡くなった子どもたちは、すでに成長した生徒であったが、親の想いは幼いころの抱きしめたぬくもりに返っていくのであろう、石像の子は幼児である。ある日は、「となりにお母さんがいなくても、ねむれている?お母さんは朝おきた時、もしかしたらとなりに巴那がねているんじゃないかって、毎日のように思ってしまいます」と書かれた紙が置いてあった。前庭の泥水を波立たせた冷たい風は、子どもへの手紙をパタパタと揺らしていた。

 大川小学校の全生徒108人のうち74人(約7割)と、13人の教職員のうち10人が亡くなった。この学校は地震から津波来襲までの約50分、校庭に生徒を集め、点呼をとり、待機し続けた。子どもを引き取りにきた親に、その確認をして渡していただけである。

 小学校のすぐ裏は杉が植林された山である。4月、6月、そして12 年1月と開かれた保護者説明会での石巻市教育委員会の報告によると、前任校の鮎川小学校で避難訓練を担当していた遠藤純二先生(教務主任)は、「山に逃げますか」と教頭に聞くが、教頭は答えられなかったという。この日、校長は休んでいた。午後3時30分過ぎ、地震から44分後、「松原を津波が越えた、すぐ避難してください」とのスピーカーが聞こえ、ようやく一団が動き始めた。北上川のたもと、道路が少し高くなったところへ、「走らずに列を作って」動き出した。津波に向かって、整然と進んでいったのである。二、三分たらずで、北上川を競り上ってきた津波は児童生徒、教職員、地区の人々をことごとく飲みさらっていった。まるで北ドイツ、ハーメルンの笛吹きの童話のようだ。(続く)

被災者が生きる時間に寄り添って(5)

  海岸地域はどうなっているのか(イ)

群馬司法書士会は新聞を編集し、多くの会員が一泊二日、二泊三日かけて、すべての仮設住宅を巡り、新聞を配り続けた。入手できない世帯に、隈なく救援情報誌を配ったということだけではない。司法書士たちは新聞を話題にして、対話していったのである。そして新聞の読者を通して、司法書士たちは確かな被害者像を写しとっていったのである。

 ある団体や広い地域の問題に係わるのは難しい。福島県の被害者に絞って支援を行ったのは、それなりに有効であった。絞ったが故に、顔のある、声のある被害者像を抱くことができた。しかし、広い津波被災地域の人々がどう生きているのか、ほとんど無知であることを忘れてはならない。

 マスコミの情報でだいたいは知っている、問題点は分かっているつもりだ、と思っているかもしれない。だが、それは矛盾した二重思考でないか。福島県に何度となく通い、被害者の生きる時間を少しでも想うことによって、マスコミが報道する福島と現実がいかに違うか、認識したはずである。にもかかわらず、宮城、岩手などの海岸部の現実をマスコミによってそこそこに知っていると思い込むのは、矛盾した二重思考である。

 マスコミも、何ヵ月後、半年後、あれから一年、あれから二年と、被災者の感情を記事にしようとしてきた。しかし、それらはステレオタイプの記念日編集、記念日記事にすぎない。自然の大津波の後、二週間ほどして「ガンバロー」コールという政治的・社会的な対抗津波に飲み込まれていった日本のマスコミは、政府・行政、東京電力が発表すると情報の整理編集の合間に、悲しさに負けずガンバッテいる、けなげな被災者の姿を飾りに使い続けてきた。初期のガンバロー・バイアスは、震災津波後の社会を見る視点を歪め続けてきた。私たちは分かったつもりにさせられてきたのである。(続く)

被災者が生きる時間に寄り添って(4)

 チェルノブイリを通して見る福島(ロ)

 ほとんどの被曝者が5つ以上の病名を持っている。ナジェージタ・ニコラエヴナさん(54歳)は原発の技師。夫は原発の建設工事にたずさわっていた。彼女は気管支喘息、甲状腺機能低下症、腎炎、糖尿病、背中の皮膚癌(手術)、高血圧などの病名がある。夫は下肢の血管拡張症、血栓症があり、歩行に障害がある。当時10歳だった上の娘は胃炎、十二指腸炎、腎炎、自律神経失調症などと診断され、07年には甲状腺癌で手術している。当時7歳だった下の娘は、伸びるはずのない13番目の肋骨が伸び始めた。彼女は15歳の時、卵巣と子宮に膿腫ができた。

 医師に症状を訴えても「また言っているな」という態度であり、放射線障害とは言わない。ただ、「どこに住んでいたのか、忘れないでください」と言うだけ。すべての症状は放射線障害と無関係でないが、政府が決めた癌、白血病などの特定疾患以外、放射線障害とは言えないのである。「忘れないでください」と、医師の良心が語りかけるだけで精一杯なのであろう。神経症的なものか、たまたまその病気が被曝者を襲ったのか、厳密に原因を問われれば、答えられなくなるからだ。

 しかし医師が放射線障害によるものと診断してくれなければ、被曝者はどうしていいのか、分からなくなる。気のせいだ、頑張らなくてはと思い、さらに疲れ悪循環に陥ることもある。周囲の眼も、なまけ者(かつて広島原爆の後では、「ブラブラ病」と言われた)とみる。だが朝起きたとき普通でも、1時間後に体が重く動かなくなるのが、被曝後の体調である。

 チェルノブイリ原子力発電所のあるプリピャチから移住してきた人々が暮らす、キエフのアパート。その責任者は、プリピャチ時代からの同僚・知人が65人亡くなっているという(広島県府中市の「ジュノーの会」の会誌「ジュノーさんのように」2006.10.24)。 死因を分類すると、癌35% 、心筋梗塞28%、脳卒中20%、自殺10%、その他7%となる。循環器による死因(心筋梗塞と脳卒中)が48%、半分にもなる。放射線によって細い血管壁が破壊されるのか。私は放射線や循環器の専門家に尋ねたが、「よく分からない」と困っていた。その上、自殺があまりに多い。

 これが22 23年後のチェルノブイリ被害者の現実である。福島はどうなるのか。問題は身体の病気だけではない。精神的にも、経済的にも、政治的にも、多数の問題が出てくる。

 群馬司法書士会の支援活動は、その初期の2年間を荷っただけである。ただ、被害者が生きる時間を知り、生きる時間に寄り添い続けるかぎり、被害者の悲しみも苦しみも遠くにあるのではなく、私たちのものでもある。悲しみや苦しみの傍にある小さな喜びや信頼も、私たちのものである。(続く)

被災者が生きる時間に寄り添って(3)

  チェルノブイリを通して見る福島(イ)

 歳月の経過と共に、何が継起していくか。原発事故については、私たちはさしあたって旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)のその後を参照できる。

 私は1991年2月、事故から5年経った時点で、チェルノブイリ原子力発電所第四号炉爆発(広島原爆の500発に相当する核分裂核種が飛びちった)後の汚染処理にたずさわった人々の診察をした。彼らは動悸、めまい、疲れ、視力障害、集中困難などの多様な症状に苦しんでいた。この時は、一日だけの短い診察だった。

 詳しく聞き取りを行ったのは事故から22 年後の2008年9月。そして翌2009年3月である。診察した被害者の一人、ゲナージさん(当時45歳)について述べよう。彼は原発建設にたずさわり、クレーン操作の仕事をしていた。事故当日、彼と妻はキエフ(チェルノブイリの南130キロにあるウクライナ共和国の首都)に出ており、二日後に帰ってきた。

 彼の住む町は原発から17キロ離れており、当初は避難命令はなかった。情報はまったくなく、むしろ5月1日のメーデーパレードのため、勝手に避難してはならないと言われていた。いずこも政府、行政は同じである。妻が妊娠していたので、それでも4月30日にキエフへ脱出。すさまじい混雑のなか、両親の住むカフカスへ避難した。

 そこでは収入がないので、やむなく三週間後にキエフに戻ってくると、事故処理場に職があると知らされた。放射線障害についてはよく知っていたが、給与がよかったので働き始めた。汚染した車を地中に埋めたり、四号炉を囲む壁を作ったりした。作業中、何度も意識を失った。朝、吐き気がし、頭痛、鼻血がしばしばあった。

 89年2月まで働き、キエフに仕事を見つけて移った。それから高血圧、糖尿病になり、甲状腺の腫瘍ができて経過を見ている。妻が甲状腺癌で手術、娘も病気がちで元気がない。働いて得たカネもソ連崩壊後のインフレで消えてしまった。(続く)

 

南相馬市の高等学校、今年度で廃校

原発事故後初の廃校

 高校                                                        南相馬市原町区にある松栄高等学校は相双エリアで唯一の私立全日制高である。1957年に原町工業高校として開校。2014年3月で57年の歴史に幕を閉じることになる。学校は原発事故により緊急時避難準備区域内に存在することになった。そのため、生徒の他校への編入、転校により休校となり、2012年度の生徒募集を行う事ができなかった。今後も原発事故の影響で生徒の確保が難しくなった為、今年度で廃校することとなった。原発事故後に公立、私立の小中高校で廃校となるのは初めて。東電に対し廃校に伴う損害賠償を請求する方針だという。(し)
高校2


学校正門に休校のお知らせがあった。
「原発事故により休校を余儀なくされた」
との文言に学校と生徒の無念さが滲んでいた。




高校3
                                                                           

(右上)かつては生徒の笑い声や歓声に満ちていたキャンパスに雑草が冬枯れしている。


(下)全国大会優勝の祝い看板が松栄高校の過去の活躍を物語っている。このような学校
   を消し去るという原発はあまりにも罪深い。
      (写真撮影はいずれも2013年12月14日)

   
                                                 

         

                          

                                                     

被災者が生きる時間に寄り添って(2)

 二つの時間(ロ)

 放射線の半減期はヨウ素(I131)で8日、ストロンチウム(Sr90)で28.8年、セシウム(Cs137)で30年、ウラン(U235)で7億年、ウランから核分裂して造られるプルトニウム(Pu239)で2万4000年とされている。対して、自動車事故や建物破壊による被害の顕在は比較的短期間に現れる。放射性物質の破壊力もこれほど長期にわたるのだから、人間の被害の判定も二段階に分けて考えた方が良いと思われる。

 被害者が生きる時間と、被害者でない人々がいつも通り生活する時間とは異なっている。被害者が体験する時間と社会一般が送るカレンダーや時計の時間とは異なっている。被害者の時間は、停まり、淀み、行きつ戻りつし、時に疾駆して消えてゆく。それは流れる時間ではなく、老いに向かって繰り返される時間である。二つの時間が異なっていると知って、外部の社会はいつも通りの時計の時間を押しつけてよいのだろうか。被害者が生きている時間を無視し、あるいは「そうは言っても、仕方がないではないか」と割り切って、機械の時間を押しつけてよいものだろうか。否、被害者の時間に寄り添って、機械の時間を随わせるべきではないのか。時効問題は、あらためて私たちに大事故以降に流れる二つの時間への再考を求めている。

 群馬司法書士会は、福島県より避難してきた原発被害者の支援から活動を始めた。法律家職能組織として、行政上の手続き問題や補償問題が大きくなってくる前に、被害者の不安に応えることから始めた。「群馬司法書士新聞震災対策号」創刊号は、群馬県に避難した人々の現状を伝え、他方で被害者が容易に帰れない福島の現地の姿を、そこに暮らしていた人々の哀願するようなまなざしで映しとっている。帰りたい、私たちの家はどうなっているのか、山や野や川は、街はどうなっているのか。犬や猫は生きているのか。友人、知人はどこへ行ったのか。私たちはこれからどうなるのか。行政や人間に向って哀願するのではなく、故郷に向かって哀願するまなざしでレポートしている。これら初期の新聞は避難者の喪失の悲しさに応え、どれだけ避難者と避難者をつないできたことか。

 その後、行政上の手続きが煩瑣になり、東京電力に対する補償手続きなどが増えてくるにしたがって、司法書士としての説明、援助に移っていったが、避難者のまなざしを忘れることはなかった。故郷への哀願のまなざしを想い続けることによって、群馬司法書士会は政府行政、マスコミ、社会一般の時間だけではなく、避難者・被害者の時間を感じとることができたのではないだろうか。それを可能にしたのは、阪神淡路大震災での支援活動の前史があったが故である。

 時はこうして流れて行く。東から西に、緯(ヨコ)に流れる時間と、行きつ戻りつしながら消えて行く経(タテ)の時間。時の織物の上で、私たちそれぞれは大震災と原発事故を体験していく。(続く)

被災者が生きる時間に寄り添って(1)  野田正彰

   二つの時間(イ)

 東日本大震災から2年が過ぎ、うつりゆく歳月を否応なく考えさせられる問題が多々ある。損害賠償請求についての3年時効問題もそのひとつ。震災、津波、避難で時間感覚を失って駆けていった初期ショック、生存のための奮闘期。仮設住宅、借り上げ住宅、遠くのアパートなどになんとか移住した後の虚脱期、しばしば襲ってくる焦燥感。福島原子力発電所事故被害者は本人が自覚している以上に、精神的にも身体的にも疲れている。疲れて意思決定に重い抵抗が伴っている精神状態のとき、時効問題が告げられる。「時効」には、無力感に陥っている被害者を行動に促すという、少しだけプラスの面もある。だが、疲憊(ヒヘイ)している人に負荷をかけ、さらに弱らせるマイナスの面があまりに強い。しかも意思決定に抵抗感がある人に重要な決断を促すと、焦燥感と混り合って、後日に悔いや自責感をつのらせることになる。

 2年数ヵ月が過ぎ、民法に決められた3年時効については、福島原発事故に限って

「時効延長の特例法」が成立する見通しとなっている。だが「3年時効を過ぎても東京電力に賠償を求められるのは」、原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)に仲介申立をした上で、和解しなかった被害者についてのみ、という絞り条件となっている。これでは、被害をどのように訴えれば良いのか、その範囲、程度を考慮中の人に対して、なにがなんでもADRへの仲介申立を強制する法律となってしまう。

 当然、「原子力損害の賠償に関する法律」(1961年6月)に定められた、事故を起こした原子力事業者が事故の過失・無過失にかかわらず、無制限の賠償責任がある(無限責任)という条文の主旨に反する。日本政府はこの法律を作ることによって、原子力発電は無限責任を定めているほど安全なのだから、造るのに問題はないという論理を使ってきた。いざ事故が起こると、事業者に過失があっても-無限無責任と言えば良いのか-、賠償請求の入口に制限をつけようとしている。

 いかなる大事故といえ、法律的には時効を考えざるを得ないだろう。だが、賠償請求訴訟の条件に時効をはずす替りに、ADRへの仲介申立という場の制限(場効と呼ぶきか)を付けるのは、トリックである。例えば、現在一般的に被害と見なされている顕在的被害については、時効を約10年、今は分かっていない潜在的被害(放射線などによる精神的、身体的、経済的、遺伝的被害ほか)については約50年といった、特例時効にするべきだろう。(続く)

(注)この記事は原発事故2年後に「群馬司法書士新聞震災対策特別号」に寄稿されたものです。時間の経過により、記載事項に旧聞される内容となっている箇所があることをお断りしておきます。原発事故を考える上で今でも十分に参考になると考え掲載いたしました。(し)

南相馬市の津波犠牲者の遺族と東電が和解(Part2その詳細)(最終回)

和解契約(要約)


和解金額

1.被申立人(東京電力)は、申立人Aに対し、和解金として***円の支払い義務があることを認める。

(内訳)

生命・身体的損害(通院交通費、通院慰謝料、その他費用)    ***円

精神的損害(ただし、A死亡に関する精神的苦痛に限る)     ***円


2.被申立人(東京電力)は、申立人Bに対し、上記の和解金として***円の支払い義務があることを認める。


3.1.被申立人(東京電力)は、申立人Cに対し、和解金として***円の支払い義務があることを認める。

(内訳)

精神的損害(ただし、A死亡に関する精神的苦痛に限る)     ***円

精神的損害(ただし、正常な日常生活の維持・継続が相当程度阻害されたために生じた精神的損害に限る)                       ***円

*筆者注:申立人Cが、ABが仮設住宅に入居した後も通学のため避難所(旅館)に継続して居住していたことに対する損害賠償


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 同様な和解は、福島県浪江町の津波で家族を失った遺族会374人が申し立てた原発ADRでも合意されている。報道によれば、和解総額は約2億9000万円。津波犠牲者の遺族が集団で東電と和解するのは初めてのケースである。

 個人のADR事例で、警戒区域内で、長期間、捜索収容活動を行うことが困難な状況下で遺族に対しての損害賠償を認めた和解事例もある。


 今回、上記の事例と異なり、第一原発から30㎞を超える津波被害地で起きた同様な状況でも損害賠償の対象になるという判断がされたことは意義深い。完(い)

 

南相馬市の津波犠牲者の遺族と東電が和解(Part2その詳細)(4)

申立人Aの陳述書(要旨・その2)

 

3月17日

私達家族は、南相馬市から福島市の避難所に避難しました。私は妻に対して申し訳なく思いながらも、妻も誰かと一緒に避難しているかも知れないと信じ、まだ希望は持ち続けていました。

3月18日から22日

福島市の避難所に避難。妻を探しに南相馬市戻るため、車にガソリンを入れたかったが、原発事故の影響でガソリンが福島に入って来ず、自分の無力感に襲われながら、毎晩涙を流していました。その期間も原発は修羅場と化していました。

3月23日

朝5時から3時間近く待って、やっとガソリンを入れることが出来、その足で息子と2人南相馬に向かいました。南相馬に着くと、初めに遺体安置所に向かいました。遺体の数が多いため、遺体安置所は原町高校から相馬農業高校に変わっていました。私は(多分息子も同じだと思う)ここに妻はいないで欲しいと願っていました。しかしその時はとうとうやって来ました。警察の人に最初に壁に貼ってある写真を確認してと言われました。その写真は遺体の写真でした。中には痛みが激しく目を覆うものも有りました。すると妻らしい写真を見つけてしまいました。私と息子は声を失いました。二人とも放心状態でした。そしてやっと妻に会えると思ったら、さらなる追い打ちが待っていました。妻は火葬されていました。いつ火葬されたのか聞くと、前日の22日に火葬されたということでした。その後のことは、あまりにもショックでよく覚えていません。また写真だけの確認では身元判明したとはいえないとのことで、DNA鑑定をするため息子の唾液を採取しました。そのため遺骨を引き取ることもできないまま避難先の福島市に戻りました。

3月23日から31日

避難所の中で、妻に対しての申し訳なさと絶望感、そして現実を受け入れられず、まるで夢のなかにいる様な不思議な感覚、そして原発事故が起きなかったら妻を私達が荼毘に付すことが出来たかと思うと、東京電力には例えようのない怒りがこみ上げてきました。

4月1日

避難所での新聞を見ていると南相馬の妻が通っていた歯科医院が再開したとのっていたので、私はすぐに福島から南相馬に向かい、その歯科医院に事情を説明し、妻のデンタルチャートを頂き、警察に向かって照合した結果、妻の身元がはっきりしました。そして安置されているお寺に行き、小さな骨壷に入った妻を抱きしめながら何度も謝り続けました。

(心情)

 私の心情としては、何よりも妻に対して申し訳ない気持ちしかありません。それは、助けてやれなかったこと。原発事故により妻の捜索がままならず、避難を強いられ、妻にさよならを言えなかったこと。見送る事ができなかったこと。そして今なお仕事にも付かず立ち直れないこと。正直死んでしまおうかと思うのは日常的であり、死体安置所で見た妻の写真が頭から離れません。とてもツライです。毎日、無力感、絶望。そして妻に会って謝りたいです。そして出会ってから20年間ありがとうと言いたいです。そのことを奪った原発事南相馬5故。東京電力に精神的損害を請求します。

上記の通り陳述します。続く(い)

  

       全てを持ち去った海から吹く風に

       小雪が舞い始めた。

頌春 今年もよろしくお願いいたします。

    新春の言葉「被災者の存在」をわすれない

 


  新しい年を迎えて

     東日本大震災及び福島第一原発事故から、3回目の新年を迎えました。しかし、事故から1000日余りの歳月が経過した今も、約15万人の方々が避難生活を送るなど復興は遅々として進んでいません。今、必要なことは、将来に向けた見通しを示すことではないでしょうか。  

  移染では

     復興の前提となる除染にかかる費用は5兆円を超えています。除染後も放射線量は基準を上回る場合が多く、再除染が必要だともいわれています。それは除染ではなく移染と言うべきではないでしょうか。 


   現実的な将来の見通しを示して

     3年を迎える今年こそ、避難者の方々に将来の見通しを示して欲しい。一定の見通しが示されれば、避難者にとって将来の計画がたてやすくなるでしょう。それには再取得価格での賠償等々の更なる支援が絶対条件になります。また、支援体制もより強固なものにしていかなければなりません。我々司法書士の支援活動は社会的使命であると強く認識し、今後も続けていくことをお誓い申し上げます。 


                   2014年1月1日

                                            原発事故被害者支援司法書士団   

初日の出

          団長  安 崎 義 清

                        団長  宮 前 有 光


  
   群馬県前橋市での初日の出
   元旦 午前7時9分撮影


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