福島原発事故とこれからの生活を考えるblog

by原発事故被害者支援司法書士団 team of shihosyoshi to support compensation for nuclear accident victims         

福島第一原発の事故で失ったものは何でしょうか?
様々なものが失われました。
失われたものを取り戻すために、何をすべきなのでしょうか。

2014年08月

ADR事例:就労不能損害について東電と和解 (1)

ADR事例:就労不能損害について東電と和解 (1)
 平成25年10月、群馬県内に避難中の被災者から原発事故損害賠償支援司法書士団に相談が寄せられた。団員3名が受託し原子力損害賠償紛争解決センターに和解仲介手続を申立て、平成26年5月和解が成立したので紹介する。

事案の概要

 申立人は50代の男性である。平成23年3月11日時点で、旧緊急時避難準備区域に居住し、やはり旧緊急時避難準備区域にあるA社で働いていた。
 原発事故後、行き先もわからないままバスに乗せられ、群馬県内の避難所に避難することとなった。
 急なことで勤務先への連絡も出来ず、社長の避難先等もわからなかった。その後、申立人は群馬県内の借り上げ住宅に移り、ハローワークに通うなどして就職先を探し始めた。
 原発事故終息の見通しが立たず、いつ地元に帰れるかわからない。群馬県内で就職し、以前と同程度の収入を得られる勤務先を探すこととした。しかし、安定した仕事には就けず、アルバイトを転々としている状況であった。
 申立人の従前の住所地および勤務地とも、平成23年9月30日に緊急時避難準備区域を解除された。これに伴い、東電は平成24年12月をもって、この区域の就労不能損害の賠償を打ち切った。申立人は就労不能損害金を生活費の不足分に充てていたため、このままでは生活が行き詰まってしまうと考えた。

 申立人は、東電に対し、申立人のかつての住所地が原発事故以前の環境を完全に取り戻し、住民全員が安全に帰還する事が実質的に可能になるまでの期間賠償を継続するべきであり、少なくとも、申立人の定年退職時までの期間に相当する収入相当額の損害賠償をすべきであるとし、和解仲介手続きを申し立てた。

 東電は、当初、答弁書で、就労不能損害は平成23年3月11日から平成24年12月31日分までについて支払済であること、申立人が、アルバイトを転々としているとはいえ就労しているため、就職は不能とまでは言えないなどとし、申立人の請求を否認したが、平成25年1月1日から同年12月31日までの就労不能損害を支払うとの原子力損害賠償紛争解決センターの和解案に最終的に合意した。
                           (続く ふ)

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避難指示が解除された町 ~福島県田村市都路町リポート(終)~

船引の仮設住宅訪問

翌日29日。都路地区の人たちが住むにある仮設住宅を訪問し、お話を伺った(個人情報保護のため多少話はアレンジしてある。)。

田村市19
 
○大熊町に近い地区の人。
 ここには震災の年の6月に入った。仮設には6人家族で住んでいる。夫婦・父母・息子2人部屋は3部屋。6畳と4畳半ふたつ。
 ここは生活が便利。買い物も3分で行ける。
住まいは地震でやられ取り壊した。
戻らない。三春町に中古住宅を買った。リホームが終わればそこに住む予定だ。
財物補償はもらった。

○80歳半ばくらいの女性。

 20キロ圏内。一人暮らし。震災直後は郡山の娘のところに親戚と一緒に避難していた。
 住まいは無事で7月にはリホームが終え、戻って住む。すこしばかり農業をやりたい。自分の食べるぶんくらいは作るつもりだ。人生はここで終わりたい。若い人たちはそうではないだろう。仮設の部屋はしばらくこのまま借りておく。 


60歳くらいの男性。

 都路に入ってすぐのところに家はある。原発からは25キロくらいの距離にある。仕事は、第一原発に行って働いている。放射線が気になる。家自体は何時でももどれる状態にあるが、仮設がある限りそこに住むつもりだ。

40代の女性。

 30キロ圏内に家はあります。義父はそこに住んで牛を飼っています。
夫と私は、仮設と家と行ったり来たりの生活です。
 自宅は何時でも戻れますが、仮設にはいられるだけいるつもりです。病院も近いし買い物も便利です。
 有機農業をやっていましたが、帰っても生活が成り立ちません。都路地区は20キロ圏内と30キロ圏内で賠償が違う。人の少ないところなので表立っては言わないが、皆不満に思っています。
田村市20



  都路地区の現状と仮設に住む住民の皆さんの今を訪ねた。
 今回解除された地区でも、20キロ圏内と30キロ圏内では状況が少し異なるようにみえる。
 20キロ圏内は、元々過疎地にあり、戻るのは地元に愛着のある比較的高齢の方が中心で、若者の帰還はあまり望めそうもない。
 30キロ圏内では、小学校に子供がある程度戻っていることなどから見て、今後若者の帰還も進むかもしれない。
 しかし、この地区は、30キロ圏内でも震災前から過疎化が進んでいたところであり、仮設での生活で都市部の便利さを知った若者が果たして戻るのかという疑問がある。「解除=元の生活に戻れること」では決してない、と感じた。
                (終 さく)

避難指示が解除された町 ~福島県田村市都路町リポート(5)~

20キロ圏内の地区へ
  「Domo(ど~も)」古道店を出て20キロ圏内にある地区に向かう。
しばらく進むと消防署都路分室に出会う
ここから先300から500メートルからが20キロ圏内だ
田村市17

 この圏内でお店を再開しているとところに寄って話を聞くことにした。まず根内畳店さんによったが、残念ながらお留守だった。
田村市18

 旅館を再開しているファームハウスさんに立ち寄り話を聞いた。ここは20キロ圏内で18キロくらいのところにある。

「昨年の8月から戻って来てこちらに住んでいる。その前はかよってきていた。戻ったのは自分の判断。
 予約のみのお客さんで営業している。昔馴染みのお客さんも昨年8月から来てくれる。
 友達の農家も市場に出荷している。このあたりの人は震災前には半農半会社仕事で大熊町に勤めている人が多かった」という。

 大熊方面へさらに進む。山道に入りしばらく行くと、視界が広がり山あいの平らな所に田と5,6件の家が見える。田は整備されているが耕作はされておらず、人の気配も感じられない。まだ、ほとんど人はもどっていないように見えた。
              (続く さく) 

避難指示が解除された町 ~福島県田村市都路町リポート(4)~

店長の吉田さんと店員の佐藤さんに、お店と地区の状況を聞いた。

BlogPaint
 「都路地区の人口は震災前が2980人くらいで、現在は2700人。戻ってきているのは1000人くらい。」
 「店の販売状況は、野菜・果物・生鮮食品が売れる。一般食品たとえばカップラーメンも売れる。」
 弁当はよく売れていたが最近は少し下火だそうだ。

 お店の建物は国の補助で、冷蔵庫は県の補助によるもの、店員は田村市の臨時職員で、食堂の店員は県の臨時職員ということだ。
 「ここの他に食品の店は鮮魚店がこの先に一軒ある。」

「農家は復活して市場に出しているのは23軒で、みなハウス栽培をしている。ただ20キロ圏内では一軒もない。」

 林業はシイタケ栽培の原木や材木などを出していたが、いまは放射線で休止状態。
「農業もだめ、林業もダメ工場もない、あるのは除染の仕事だけ」と吉田さんは話す。

 除染は学校・居宅等は終了したが、現在は道路等の除染がされている。川内村や葛尾村に除染の仕事に行く人もいるという。避難区域から除外されても、前とおなじ生活には、簡単に戻れるものではない。
 
 店長の吉田さんは船引町運動場仮設住宅(都路地区の人が居住)の自治会長さんで、群馬司法書士新聞も配布してくれているという。この仮設から毎日お店に通っている。717日に各地区の人たちを集めて「都路原発事故被害者を守る会」結成するという。
田村市14
 

 近くにある古道小学校に寄る。
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グランドでは子供たちが野球の練習をしていた。20人くらいか。子供たちの動きや声に活気を感じる。思ったより多くの子供たちが戻っているようだ。ただ多くは仮設からバスで通っているという。
                     (続く さく)  

避難指示が解除された町 ~福島県田村市都路町リポート(3)~

仮設商業施設「Domo(ど~も)」古道店

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 「Domo(ど~も)」古道店へ向かう。途中道脇にも除染土の黒いフレコンバックが積んである。袋には白地で、たとえば「H25.12.○○ ○区 名前 1.11t 0.78μs/h」というような記載がしてある。このようなフレコンバックを道端の所々で見かけた。

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 古道店に到着。看板には「都路町商業施設DOMO古道店」とある。船引にある田村市役所から約40分。岩井沢店より一回り大きい建物だ。


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 中に入るとすぐ右側にレジ、左側に食事スペースがあり、数人が食事をしていた。前面には様々な商品が棚に陳列してある。

 ちょうどお昼時、私たち4人もテーブルに座り、メニーを見る。かつ丼、親子丼、肉うどん、うどん等があった。
 四人ともかつ丼を頼むと、ご飯ものはかつ丼と親子丼ひとつ分しか残っていないという。食事をする人は地元か除染関係の人で一日に出る数はだいたい決まっているのかもしれない。しかたなく、肉うどん2つを追加注文した
田村市10
田村市12
  店内の品ぞろえは、岩井沢店とおなじく、食品・日用品生活に必要な一通りのものは揃っている。

 地元松本農園のお米、キュウリも並べられていた。

 地元で農業を再開した人はまだ多くないようだ。店にはお昼休み時間からか、人がとぎれなく訪れ、買い物をしていく。食事に訪れた人たちも、私達の他に一組いた。地元の森林組合と建設業(除染の仕事)の人たちだそうだ。

                                            (続く さく) 

避難指示が解除された町 ~福島県田村市都路町リポート(2)~

仮設商業施設「Domo(ど~も)」岩井沢店

 最初の目的地である仮設商業施設「Domo(ど~も)」岩井沢店に立ち寄る。

 田村市4

 この施設は、田村市が中小企業基盤整備機構の交付金を活用したもので、市民の帰還支援策として、まだ多くの商店が再開できない同地区で食料・飲料等の生活用品を市民に提供している。
 この施設ができるまでは、住民は20,30分かけて自動車で他地区へ買い物に行っていたという。プレハブの平家建で、コンビニといった風情の店である。
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 中に入ると、食品・タバコ・日用品が棚に置いてある。弁当もある。地元の米とキュウリも販売していた。袋に松本農園と書かれている。

田村市5
職員の人に話を聞く。

 ここは公設で職員は市の臨時職員だそうだ。お客の9割は地元の人で、1割は除染関係の仕事の人だということである。
田村市7
 お昼少し前の時だが、職員の方と話をしている間に一人二人とお客が入ってくる。 お店の人に、この先にもう一店舗Domo(ど~も)古道店があり、そこの店長さんに話を聞いたらいいと勧められた。その店では食事も取れるという。
            (続く  さく)  

 

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